「台湾統治時代」日本による植民地政策の光と影

事件

台湾について

日本の最西端与那国島から約100キロほどの距離
面積は九州と同じくらい
人口は約2300万人

おが太郎
おが太郎

コロナ前の2019年データになりますが、日本からは約200万人が台湾へ訪れ、台湾からは500万人が来日しました!

長まろ
長まろ

隣の国ってこともあるけど、よく台湾は親日国家と呼ばれているもんね

【特徴】
南国ならではの温暖な気候
国土の3分の2を山地が占めている
標高3000メートルを超える山が164もある

最高峰:玉山(新高山)は標高3952メートル
おが太郎
おが太郎

日本は第二次世界大戦が終わるまで約50年間台湾を統治していました。
今日はそんな統治時代の話となります!

台湾の歴史

原住民

元々台湾には原住民がいて、彼らはオーストロネシア語族と分類される
文字を持たず、そのため記録された歴史資料はほとんど無い

狩猟や畑作などで生活をしていた
一つの部族だけではなく、多くの部族が存在
ルイラン、タオカス、ホアニア、シラヤ、サオ、クヴァランなど
各部族は互いに支配権を求め争いもしていた

オランダ統治時代

15世紀末から17世紀ごろのヨーロッパは大航海時代と呼ばれ海外進出を競い合っていた
そんな中オランダが台湾に目をつける

おが太郎
おが太郎

目的は中国と日本の間の中継貿易を行うためです

台南付近にゼーランディア城、プロビンジャ城を構築し拠点とする

その後スペインが少し遅れて台湾に来たが
西北部の港、和平島にサンサルバドル城を建設したものの
やがてオランダに追われて、台湾を去ることとなる

おが太郎
おが太郎

だから台湾には西洋の築いた城の面影が今でも残ってたりするんですよね

このオランダは台湾全土を統治したわけではなく
支配地域は南西にある台南周辺のみであった
オランダは武力で原住民を支配し、キリスト教の布教を進めた
また、土地を開墾するため、対岸の中国大陸から漢族を移住させた
ここで初めて中国大陸の人との関わりが出来る
その頃中国大陸では明王朝の時代であったが台湾には関心がなかった

1644年 250年以上続いた明朝が満州族の清によって亡びる
この明朝の亡命政権が清に最後まで抵抗を続ける
この亡命政権を率いたのが鄭成功である

おが太郎
おが太郎

ちなみに鄭成功は母親が平戸出身の田川マツっていう日本人で、
平戸産まれの中国人とのハーフなんですね!

鄭成功は南へ後退しながら清に抵抗
しかし南京で大敗し大陸から撤退しなければいけなかった
そこで目を付けたのが台湾
1661年 オランダ軍 VS 鄭成功軍
艦隊を率いて海からプロヴィンシャ城を攻める
その後、鄭成功の猛攻が続き、オランダは台湾から撤退をする

オランダ統治期は40年程で終わりとなる

おが太郎
おが太郎

鄭成功は今でも台湾では英雄として人気があります!

長まろ
長まろ

日本の教科書に載ってるくらいだもんね!

鄭 成功(てい せいこう、拼音:Zhèng Chénggōng、チェン チェンコン、繁体字: 鄭成功; 簡体字: 郑成功、寛永元年/大明天啓4年7月14日1624年8月27日) – 大明永暦16年5月8日1662年6月23日))は、中国代の軍人政治家日本国肥前国松浦郡平戸島長崎県平戸市)で誕生。元のは森。は明儼。日本名は田川福松に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた。台湾・中国では民族的英雄ヒーロー)として描かれており[1]、特に台湾国民と民進党および国民党から、と対抗しオランダ軍(東インド会社)を討ち払ったことから、総理孫文総裁蔣介石とならぶ「三人の国神・国民の父[要出典]の一人として尊敬されている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E6%88%90%E5%8A%9F

鄭政権時代

統治域は台湾全域にまでは至っていない
台南を中心にオランダ統治期よりやや広い領土を統治していた

鄭政権は台湾を清朝に対抗する拠点とした
これ以降、対岸の福建省や広東省北部から漢族が新天地を求めて大量に台湾へ移住し始める

鄭成功の孫の鄭克塽の時に清が台湾へ侵攻し、
鄭政権はこれに敗れる
鄭政権の時代はわずか20年ほど

清朝統治時代

清の台湾統治目的は、あくまで台湾が清の反勢力の拠点となることを恐れたため
台湾はあくまで福建省に隷属する「台湾府」とした

おが太郎
おが太郎

日本で薩摩藩が琉球王国を属する形にしたのと似ていますね

清の時代、台湾への渡航は禁止していたが
対岸の福建や広東では人口過剰もあり
台湾へ新たな土地を求めて漢民族が移住し続けた

その過程で平地に住んでいた原住民族は漢民族と同化するもの
漢族との同化を拒絶し山間部に渡るものとがいた

そのため現在台湾で西側に原住民族はあまりいない

1871年 宮古島の島民を乗せた船が悪天候で台湾南部に漂着
そこでパイワン族により54人が殺害されるという事件が起こった
全員首を狩られて殺害されている
当時、台湾の先住民族の中には、敵対する部族に対し首を刈ることをしていた

この事件に対し日本政府は1874年台湾出兵 
約3600名による軍を率いて事件現場一帯を占領
日本政府は清国に責任を追及
清国は台湾は「化外の地」であるとして責任を回避

おが太郎
おが太郎

「化外の地」とは?清国の統治の及ばない土地という意味です。

結果、イギリスの仲介もあり清国は日本へ見舞金という形で支払っている

この台湾出兵をきっかけに、清国は台湾を放置することのリスクに気付く
それまで福建省に隷属する台湾府だったのを、独立の一省として台湾省に格上げする

台南にあった首府を台北に移し、
人口調査、区画整理、鉄道事業など力を入れ始めた

1894年 日清戦争が始まる
日本が勝利し下関条約が結ばれ台湾が日本の初めての植民地となる

日本統治時代

既に台湾に定住していた元々いた原住民族や漢民族は日本統治をすんなり受け入れなかった
これは清の統治が行き届いていなかったため、
日本領として勝手に編入したことに対して反抗する人たちが多くいた

1895年 日本軍が台湾に上陸、北部の基隆を征圧
この北部は抵抗せずに統治に従った方が得策と考えた人が多くいた

だが台中、台南にかけて日本の統治に抵抗する台湾人は各地でゲリラ戦を展開
鎮圧に関わった日本軍の総数は陸軍約50,000人
南部の台南まで占領するの上陸から5ヶ月もかかった

当時の台湾の総人口は260万人ほどいて、台湾人の犠牲者は約15000人も出た

おが太郎
おが太郎

「もう一つの日清戦争」とも呼ばれます

この時、平地に住む原住民の多くは、漢人と同化していたが
山岳に住む原住民たちはこれまで統治されたということはなかった

そこで理蕃政策と呼ばれる原住民に対する統治策を打ち出す
清の時代には漢民族と原住民の衝突を防ぐ目的で隘制(境界石を建て両社の区域を明確にした)

日本統治期には、この境界区域をさらに強化し、隘勇線を設置
柵や鉄条網をはり境界区域を包囲して、その鉄条網には電流が流れるものや、
地雷などを置いて、原住民を山岳地帯に閉じ込める統治をした

長まろ
長まろ

何で山岳地帯まで統治しようとしたの?清みたいに放っておけばよかったのに。

日本が統治している間はしばしば台湾原住民の反乱が起きた
これに対して日本は軍隊や警察を動員して反抗的な原住民を鎮圧
日本側に危害を加えた場合、一族皆殺しなどの厳しい制裁を加えた

最大の抗日事件「霧社事件」

霧社と呼ばれる地名が台湾中部の山岳地帯にある
セデック族約1200名が運動会の開かれていた日本人小学校を襲撃
約130名程日本人を殺害し、多くが首を狩られた
セデック族には首を狩ることで1人前の男として認められる風習があった

日本は報復として軍隊を出動
飛行機による爆撃や大砲、機関銃、毒ガスなどを使用して徹底的に攻撃した

長まろ
長まろ

毒ガスに関しては使用した・していないが言われているので定かではないことは添えておきます。

セデック族で生き残ったのは200名程しかいないと言われている
その生き延びた人達も元居た場所を追い出されて強制移住させられた

おが太郎
おが太郎

事件のきっかけは日本人警察官とセデック族の青年間の暴力沙汰からですが、
根は深くて、日本の統治によって生活の場を奪われて、
道路の開墾や木材の運送など安い賃金で働かせられたんですね。

日本人警官と原住民女性との結婚が推奨されていたのですが、
任期を終えた警官は妻子を置いて去るなどひどい仕打ちをしていて、
そんな扱いに対する恨みがずっとあったと言われています。

おが太郎
おが太郎

ちなみに『セデック・バレ』という映画がありますので良かったら!
2部作で4時間半くらいの超大作ですが(笑)

https://amzn.to/3XNh9yr
長まろ
長まろ

セデック・バレって聞くと自分はソニック(ChthoniC、閃靈樂團) の方ですかね!
クレイドル・オブ・フィルスを彷彿とさせるサウンドです。

https://amzn.to/3WaHDII
日本の統治政策

1895年 台湾総督府が設置 
初代総督に樺山資紀が着任
2代目は桂太郎
3代目は乃木希典 

この総督3代に渡る約3年間は武力で反日勢力を討伐を試みたが
逆に抵抗勢力からの恨みを増大させて反乱が収まらなかった
この武力討伐にも出費もかかり、財政収支は赤字が続く

おが太郎
おが太郎

帝国議会で台湾売却論が出たほどです

そして4代目総督に児玉源太郎が就任 
児玉の大きな功績は、後藤新平を総督府民政長官として抜擢したこと

後藤新平「ヒラメの目をタイの目にすることは出来ない
台湾人をいきなり日本人化させることはできないし、やってはいけない
社会の習慣制度というものは相当の理由があって、長い間の必要から生まれてきているもので
それをわきまえずに無理に押し付ければ上手くいかない
①反日勢力や盗賊などの治安を改善

日本が統治する前から台湾にあった保甲制度を復活
10の家で1つの「甲」をつくり、10甲で1保とする 
つまり1保には100世帯がある
この保や甲による単位で相互監視する制度
違反者がいれば連帯責任もある

おが太郎
おが太郎

日本の江戸時代にあった五人組と似ていますね

日本人が治安維持するだけでなく
自ら現地の台湾の人が自警団を作って治安を維持させた
この自警団を日本の警察の下に置いた

調査をしていくと反日勢力や盗賊などの集団には
20名ほどのリーダーがいることが分かった
彼らに対して武力で討伐するのではなく、説得をした
日本に従えば資金を与え、開拓工事などの職を提供するといったメリットを持ちかける

おが太郎
おが太郎

要は今からでも日本の統治に従えば、処罰せずに逆に優遇しますよ、
それに応じないのであれば、重い刑罰を科しますと言った具合ですね。

これにより元々悪かった台湾の治安を改善させた

②アヘン

日本が統治する前からアヘンが台湾住民の間に常習化していた
アヘンに含まれるモルヒネはマラリアなど熱帯病による苦痛をやわらげる効果がある
そのため台湾では家庭の常備薬にもなっていた

しかしアヘンの効果は一時的で、からだの衰弱、心身が不安定になったりする
何よりも依存性が高い麻薬である
1900年の時点で台湾でのアヘン常習者数は約17万人、人口比で言うと約6%

おが太郎
おが太郎

初恋の人と結婚する確率1%と言われているので、いかにこの6%っていう数字が大きいか・・・

長まろ
長まろ

むしろ初恋の人と結婚できる人が1%もいるんかい!にびっくり(笑)


日本はアヘンの常習者を減らすことに取り組む
アヘン吸引者から一気にアヘンを取り上げれば混乱を招いてしまう
そこで、アヘン販売事業を台湾総督府の専売にした

■アヘンの価格を引き上げ
■同時にタバコ、酒の税金をゼロへ
常習者の依存の対象を変えた

■アヘン吸引者となっているものだけに手帳を所持させた
この手帳で指定された特定の取引業者からしか購入できないようにした
これは新たなアヘン吸引者には購入できない仕組みとするため

■学校などでアヘン吸引の違法性とデメリットを教えた

17万人いた吸引者は、1917年には6万人ほどに減少

おが太郎
おが太郎

ここでやっと、日本が台湾に対して近代化を進められることとなります。
日本はこの台湾統治を何としてでも成功させたかったんですね。
それは欧米列強国と肩を並べたいため。
そこで植民地経営に有能な人材、莫大な投資をしていくことになります。

③インフラ整備をした

農業をする上で水の供給が管理できていなかった
当時は天候に頼るだけで、農業は極めて不安定かつ収穫量も少なかった

そこで日本は農業用水を供給する大規模な工事を行った
それを指揮したのが八田與一

おが太郎
おが太郎

今でも台湾で最も尊敬されている日本人の一人です

八田與一は嘉南平原に目をつける
嘉南平原は総面積約4,550平方km(日本で言うと京都府と同じくらいの膨大な土地) 
乾季にはひどい干ばつが続き、雨季には洪水が発生
そのためわずかに耕作地があるだけで、ほとんど荒地のような平原であった
ここに水を供給できれば、台湾の耕地の5分の1を占める規模になる

水を供給するためには大きなダムを作る必要があった
完成時は、世界最大の規模である鳥山頭ダムを作り上げる(貯水量1億5000万トン)

そのダムから嘉南平原全体に水を通すには
勾配を周到に検討しその間にいくつもの水路や水門をつくった
約10年の歳月をかけて、嘉南平原は台湾最大の農業地帯となった

おが太郎
おが太郎

これは現在でも最大の農業地帯なんですよね!

④稲

磯永吉が稲の品種改良により蓬莱米」をつくることに成功

台湾には1200くらいの稲の品種があった
細長く粘り気がない品種で、多くを収穫することが難しいものであった

従来の台湾米を日本の米とブレンドし品種改良した
稲の品種改良は優れた特徴を持つ品種のめしべに別の優れた特徴を持つ品種の花粉を付着させる
双方の優れた特徴を併せ持つ新しい品種を作り出すことができる

台湾の気候条件に見合うよう10年の歳月をかけて改良を重ね生まれたのが蓬莱米
病気にも強く丈夫な品種で、同じ耕地面積でもより多く収穫できた

こうして以前よりも大量の米を生産することができ、日本本土にも送られた
日本本土は近代になって急激な人口増加もあって米の供給が十分ではなかった

磯永吉は戦後も中華民国政府の要望で台湾に残り、
中華民国の農林省技術顧問を務めた

おが太郎
おが太郎

台湾に生涯をささげた人なんですね

⑤衛生環境の向上

台湾はペスト、マラリアなど風土病が蔓延し、島民の平均寿命は40歳ほどだった
日本軍も台湾統治に関し戦死者以上に、風土病で亡くなっている人の方が多い
原因として住民の多くはため池や汚染された河川からの水を使用
それによって病気が蔓延していた
そのため日本は上水道の供給施設を建設したり、
検疫、患者の隔離、消毒の徹底、病気を媒介する蚊やネズミを定期的に駆除した
また、病院を建設し、日本人医師を派遣したり、医学校を設立して台湾人医師を育成
その成果もあって台湾の衛生環境は飛躍的に改善した

まとめ

おが太郎
おが太郎

こんな具合に、日本が台湾で行ったことは他にもいっぱいありますがキリがないので・・・

日本の統治によって飛躍的に台湾を近代化させたことは事実
ただそこには日本の統治によって多くの血が流れ、
犠牲になった人、差別を受けた人が大勢いる

台湾では日本統治時代の良い面と悪い面の両方を学校で習う

長まろ
長まろ

日本だとあまり悪い面での話を習ったり聞いたりすることはないかもしれない!

おが太郎
おが太郎

それでも今も多くの人が親日的でいてくれることに、
感謝 kám-siā

おが太郎
おが太郎

Podcastで私が歌っているつもりの歌はセデック族の歌でした(笑)

セデックバレ 歌 - 検索 動画
タイトルとURLをコピーしました