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正確には「朝鮮聘礼使(へいれいし)」と呼ぶそうです
朝鮮通信使とは
室町時代から江戸時代にかけて日本へ派遣された朝鮮からの外交使節団
朝鮮通信使のそもそもの趣旨は、室町幕府の将軍からの使者と国書に対する高麗王朝の返礼であった。1375年(永和元年)に足利義満によって派遣された日本国王使に対して信(よしみ)を通わす使者として派遣されたのが始まりである。15世紀半ばからしばらく途絶え、安土桃山時代に李氏朝鮮から豊臣秀吉に向けても派遣された。しかし、その後の文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)によって日朝間が国交断絶となったために中断されて、江戸時代に再開された。
広義の意味では、室町時代から江戸時代にかけてのもの全部を指すが、一般に朝鮮通信使と記述する場合は狭義の意味の江戸時代のそれを指すことが多い。「朝鮮通信使」という表現は研究者による学術用語であり、史料上には「信使」・「朝鮮信使」として現れる。また江戸幕府は朝鮮通信使の来日については琉球使節と同様に「貢物を献上する」という意味を含む「来聘」という表現をもっぱら用いており、使節についても「朝鮮来聘使」・「来聘使」・「朝鮮聘礼使」・「聘礼使」と称し、一般にもそのように呼ばれていた。
江戸幕府の外交政策において、朝鮮は琉球王国と並んで正式な国交のある通信国とされていた。その他の中国の明や清、ポルトガル(南蛮)、オランダ・イギリス(紅毛)といった国々は貿商国と定義されており、貿易は行いつつも幕末まで正式の外交関係はなかった。このため朝鮮通信使は江戸幕府の威信を示す機会であるとともに、文化交流のきっかけにもなった[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E4%BD%BF
はじまり
元々は室町時代くらいから数回行われていた(足利義満のころ)
当時流行った倭寇の取り締まりを要請したことが始まり
応仁の乱以降、戦国時代に入り通信使は途絶えていた
その後豊臣秀吉が天下統一をし、再開された
しかし豊臣秀吉による朝鮮出兵が行われる
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文禄・慶長の役(1592年~1598年)ですね。
秀吉は明を征服する目的で朝鮮から攻め込みました。
秀吉は15万くらいの大群で李氏朝鮮を攻める
明も朝鮮の援護に加わり最終的には秀吉の死によって撤退となる
秀吉の朝鮮出兵によって明国の弱体化を引き起こした
再開のきっかけ
その後徳川家康による江戸幕府が開かれた
当時対馬を統治していた対馬藩は
一刻も早く朝鮮との貿易を再開したかった
対馬は土地のほとんどが山林で農業には不向きの土地
釜山とは50km程度の距離で近しく
元々半島との貿易で作物を補っていた
家康も朝鮮との貿易を再開したいと思っていた
しかし外交経験がなく、
兼ねてより交流のあった対馬藩に仲介してもらう
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とは言え数年前に攻めてきた国のことを簡単に信用するわけはなく、
そこで朝鮮から使者が江戸幕府にやってくるが
家康が朝鮮への出兵の意思がないことを明確に伝え
朝鮮側でも通信使再開の方向で話が進みました
対馬藩の捏造
しかし再開に向けて江戸幕府側へ提示した条件が2つ
①先に幕府から日本の国書を持ってくる
②文禄慶長の役で李氏朝鮮の祖先の墓荒らしをした犯人の引き渡し
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①は当時の外交の習わしで先に国書を持っていく方が部下のようなもの
②に関しても戦の最中の出来事で犯人などわかるはずもない
しかし対馬藩はこの条件を江戸幕府に伝えず捏造することにした
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え、何で!?やばいんじゃない?
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単純に対馬藩自体早く交易をしないと自国がまずいから背に腹は代えられなかった・・・・んだと思います。
国書に関してはそれっぽいものを作らせ使者を送り
墓荒らしの犯人に関しては別件での罪人2人を送ったそうです。
対馬藩が偽造した国書に対して朝鮮は返礼の文書を送ってきたが、
朝鮮からの返礼の文書も捏造した国書との矛盾がないようにあらかじめ書き換え
江戸幕府へ渡ることになった
そして捏造したことは明るみにならずに朝鮮通信使は再開されることとなった
朝鮮側も実は捏造には気づいていたが黙認したと言われている。 理由は国対国の体面上は日本は約束を守ったわけで 近隣諸国の状況を考えた場合日本とは早めに仲直りしておきたかったと言われている。 当時明は女真族を統一したヌルハチに圧されていた(その後滅亡) 朝鮮もヌルハチに圧力をかけられていたので、 この時点で日本と敵対したくはなかった思惑がある
捏造の発覚
しかし捏造は3代将軍家光の時代にバレてしまう
対馬藩藩主と家臣のお家騒動から
家臣側が幕府に捏造を暴露してしまった
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暴露した家臣側が江戸に在中していたので、機を見て暴露したようです。
裁定が行われ暴露した家臣及び、
実際に朝鮮との外交を取り仕切っていた人物が流罪となった
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暴露した側が流罪となり、藩主側の外交を取り仕切っていた人間も同じく流罪となったので、
喧嘩両成敗な結果になったのですね。
その後幕府の息のかかった人間を監視役として対馬藩に付けた
その後は幕府の監視の下、交易が続くことになった
朝鮮通信使の特徴
正使・副使・書状官の他に、旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、
贈物係、旅行用品係、画家、水夫など様々な構成
大体朝鮮側から500人程度が来た
それに対馬藩からの案内役や警護が1500人程度加わった
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将軍の代替わりなどの際に呼ばれることが多かったです
通信使は釜山~対馬~大阪→江戸
大阪から超豪華な船に乗って淀まで行き
そこから陸路で京都~江戸を行進した
朝鮮からの使節は国書を携えてそれを時の将軍に渡す
将軍からは返信と返礼品を送り通信使は帰る
江戸の滞在は数日であり、大阪ー江戸間は半月程度
対馬ー大阪航路は1か月半くらいかかっていた
全行程は8~10か月くらいかかった
朝鮮通信使の影響
①日本の様子が対外的に知られることとなった
朝鮮側の史料にいくつも日本の様子が書かれている
当時日本は鎖国していたため、
外国から見た日本の資料は大変貴重な物
当時の日本人の様子を知ることができる
②日本の庶民にとっては大きな娯楽となった
大名行列と違い絢爛豪華な行列
楽隊や着飾った人たち、異国情緒あふれていた
③食文化も影響を与えた
当時日本は肉食をしなかった
通信使の料理人が日本から提供された牛や豚を使い調理
時代が経つにつれて日本側で料理本を用意し
通信使への接待のため肉料理をふるまった
キムチや焼肉などが伝わった
まとめ
江戸時代には計12回の通信使が来た
最後は11代将軍徳川家斉の時(1811年)
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ただしこの時は財政的な理由もあり対馬藩までの通信使となりました
19世紀より朝鮮は凶作で費用調達ができなくなった
日本も幕末の動乱で通信使を再開させるゆとりはなかった
何とか再開させようと双方試みるが
その後通信使が再開されることはなかった
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昨今の日韓関係も冷え込んでいますが
かつての朝鮮通信使のように良い交流ができるのがベストですね!