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杉原千畝(1900年~1986年)
時代背景
杉原が生まれたのは1900年
日清戦争と日露戦争の間の時期であり、
日本としては近代化政策によってメキメキと強くなっていた時代
生まれ~外交官になるまで
ごく普通の一般的な家庭で生まれた
決して裕福な家庭で育ったわけではない
父親が医者に助けられた経験があり、息子には医者になってほしかった
しかし当の杉原千畝は医者には興味がなかった
英語教師を目指し親に反発する
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
当時の家父長制からすると父親に逆らうのはかなり勇気が要ったと思います
親からは半ば勘当され学費なども自分で支払うこととなり
生活すら厳しい中で苦境に立たされる
しかし当時外交官の留学は学費が免除であったことから
ロシア系の外交官の道で留学をすることなる
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
元々頭も良かったのに加えハングリー精神も相当あったようですね
杉原千畝はソ連通の外交官として秀でることとなる
ソ連系の国に赴任することとなる
在カウナス日本領事館時代
リトアニアの在カウナス日本領事館の副領事に就任
当時のリトアニアはソ連に併合される直前
欧州ではヒトラー率いるナチスドイツが連合国と戦争をしていた
ドイツはユダヤ人迫害を進めていくことによって
ドイツやポーランドにいたユダヤ人はソ連側の東に逃げていくことになる
そんな中でユダヤ人はリトアニアを経由してさらに東に行くこととなる
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
リトアニアはポーランドとソ連の間くらいにある国です
ユダヤ人がソ連を経由して日本まで行くには当然ながらビザが必要になる
ただし当時の日本のビザは避難先の入国許可証が必要であった
着の身着のままで逃げてきた人々はもちろんそんなものがあるはずもなく・・・
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
当時も今もそうですが日本は難民申請は厳しいです。
そのため最終避難先が日本ということにもならず、日本行きのビザが発給されません。
経由するくらいが何とかって感じですね。
そのためユダヤ人たちは日本を経由してアメリカなどの国を目指そうとしてました。
しかしビザはもらえず立ち往生・・・
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
ただでさえドイツから逃げるように何とかたどり着いてたのに・・・
杉原千畝は天秤にかけた
ユダヤ人を助けるか、自分の将来の安泰を取るか
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
色々葛藤はあったのかもしれませんが、杉原千畝は自分の輝かしい未来よりも目の前の困っているユダヤ人を選んだのです!
杉原千畝は日本政府の命令を無視して
2139枚のビザを発給することとなる
ビザは1枚で1人ではなく、その家族も有効だった
そのため杉原千畝が助けたユダヤ人は6000人くらいいたと言われている
6000名のユダヤ人はシベリア鉄道に乗って ウラジオストック港から日本の敦賀から入国 日本の中でいろいろ転々としてアメリカやオーストラリアなどの国に行った
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
ちなみにソ連はタダで経由させたわけではなく、
ユダヤ人が持っていた金品を通行料として巻き上げたんだとか。
まぁある意味ビジネスではありますけど・・・
ソ連側の経済効果はかなりあったらしいですね!
杉原千畝のその後
リトアニアからベルリンに移動してそこで働く
その後プラハ→ケーニベルク→ブカレストと移り渡りそこで終戦を迎える
日本人であったことから1年くらい収容所へ入れられる
1946年11月 日本に帰れる許可をもらえる
1947年4月 日本に何とか帰国する
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
しかし日本に帰っても外交官をクビになってしまいます
戦後すぐの時代で日本国内が貧しい中 外交官として働く場所を提供することもできなかった面が強いと言われている
その後翻訳業や貿易関係の仕事などを転々とする
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
平凡な暮らしをしていた杉原宛に1本の電話が鳴ります
1968年 イスラエル大使館から電話が来る
ユダヤ人たちが杉原千畝をずっと探していた
リトアニアの領事館は既になくなっていて、
杉原がどこに行ったかわからなくなっていたが
やっと杉原を見つけることができた
ビザを発給したユダヤ人数名と出会って感謝の意を伝えられる
そこから日本においても杉原千畝の名が有名となっていった
外務省からも亡くなった後(1991年)に名誉復権を受けた
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
「東洋のシンドラー」とも言われるようになります。
あのオスカー・シンドラーとよく並べて評されますね!
杉原千畝での映画もあります↓↓↓
まとめ
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
日本にこんな立派な人がいたなんて誇りだよね!
当時日本はドイツと手を結んでいたわけなのに、ある意味そのドイツを敵に回しかねないわけだしね。
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/49c396264967e362a3ccf7cdb6e30c0b.png)
損得とかではなく、本当に目の前で困っている人を助けたかった、ってところに尽きるんだろうね。人としてものすごく尊敬できます。
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【参考図書】