「鈴木商店」三井・三菱を圧倒するか天下を三分するか!

政治・経済
おが太郎
おが太郎

「三井三菱を圧倒するかしからざるも天下を3分するか」

第一次世界大戦中の天下3分の宣言書と呼ばれる金子直吉の手紙です。

音声はこちら↓↓↓

鈴木商店とは

三井や三菱と並ぶくらい日本では大企業であった
全盛期である大正8~9年の年間取扱高は16億円ほど
三井物産が当時12億円くらいと言われている

鈴木岩次郎から始まる

1868年 神戸港開港

鈴木岩次郎(埼玉県出身)が菓子職人を目指して長崎で修行
東京へ戻る途中、開港にぎわっている神戸に目を付け商売をする

1874年「カネ辰鈴木商店」を開く
海外から輸入された砂糖を国内販売している「辰巳屋」からのれん分け

3年後によねという女性と結婚
関西で砂糖の販売で繁盛する

金子直吉の入店

1886年 金子直吉(土佐出身)20歳で入店
岩次郎に厳しく商売を教わる

おが太郎
おが太郎

そろばんで殴られて頭から血が出たエピソードがあるくらい厳しかったようです

耐えられず一度土佐に帰るが
よねから手紙で励まされ再度岩次郎のところに戻る

1894年 岩次郎が病死
よねが店の存続を決意し金子直吉らに経営を任せる

その後も直吉が事業で大損をしたときも、よねは信頼して事業を任せてくれた

樟脳でもうける

クスノキの葉からとれる樟脳は防虫剤、火薬の原料
第一世界大戦時では金と同じくらいの価格であった

日清戦争により台湾を植民地とした日本は
台湾で樟脳が多くとれるため、国が主導で専売制にしようとする
しかし元々樟脳を扱っている業者は国主導となることを良くは思わない
そこで金子直吉が業者を取りまとめて専売制に協力
結果、台湾で65%独占販売権を得ることとなる

1902年 合名会社鈴木商店となる

砂糖

北九州に製糖所を造り砂糖の製造、販売を行う
九州でトップシェアになった
関西で独占していた大日本製糖に合併を持ち掛けられるが、
合併せずに650万で売却し販売権を確保した
投資額の3倍の利益を得ることに成功する

世界へ

おが太郎
おが太郎

鈴木商店はおそらく各商社の中で最も多くの自由を若い社員に与えたようです

有能な人材を採用し自由に仕事をさせた
それによって有能な人材が育つスパイラルとなった

1914年~1918年 第一世界大戦が勃発する

海外40カ所に拠点を持つようになる
あらゆる商品の値動きや海外の情勢がどこよりも早く届く独自の情報網も作った

おが太郎
おが太郎

朝日毎日などの新聞社も鈴木商店に聞きに来るほどだったとか

第一世界大戦はすぐに終わると言う予想に反して戦争は長引いた

おが太郎
おが太郎

この時砂糖、小麦、鉄をとにかく買いまくったみたいです

鉄と名の付くものは金に糸目をつけずいくらでも買いまくれ!
金子直吉から号令が出た
そのため各国から鉄を買い占めた

おが太郎
おが太郎

世間ではこの異常な行動に気が狂ったのかと言われていたとか

長まろ
長まろ

今の世の中でもこのように逆張りしてる人が結果的に成功したりするよね

3.4ヶ月後に物価が高騰し、特に鉄や船の値が上がった
イギリスの艦隊はドイツの潜水艦などに一日平均5万t沈められていたため
神戸の造船所に国内外から注文が殺到することとなる

三菱造船所に貨物船などを大量に注文が入り
船を発注すると同時に大量の鉄を売り込んだ

1916年 鈴木商店も造船所を買収して自ら船の製造も始める

鉄はイギリスやアメリカに依存していたが、
対戦による鉄不足のためイギリス、アメリカは鉄の輸出を禁止
日本に駐在していたアメリカ大使、ローランド・モリスと商談し
日本はアメリカより鉄材を受け取りその3分の2にあたる分で造った船をアメリカへ提供する
残りの1/3の鉄は日本で使えることになった

戦争によりイギリス商社が麻痺したため、
イギリス政府の注文を直接請け、小麦や大豆約50万トンの注文が入る

大正8.9年 年商16億円
三井物産を抜き、日本のトップになる

鈴木商店の手法

①あらかじめイギリスが買いそうなものを予想して船便で送る

おが太郎
おが太郎

当時イギリスまでは40日ほどかかりました。
普通なら買い付け先を決めてから出発しますが、

先に商品を積んで出発して2、3日後にイギリスに着くという時になって初めて、
「こんな商材がありますけど」って感じで売ってたらしい。
欲しいものだからねが吊り上がって普通より2割利益を上げられたらしい。

②ストックボート方式

新規造船の受注がない間に独自に船を作る事。社員や設備の有効活用手段として行われた(遊休期間をなくした)。 こうして作られた船は「ストックボート」と呼ばれたことからストックボード式と呼ばれる。
メリット・・・非稼働期間を無くすことによる資源有効活用
デメリット・・・想定よりも安い値段でしか売れなかったら損失につながる

鈴木商店の凋落

1918年 米騒動の焼き討ち事件

約1万人の群衆が鈴木商店本店に石油缶を持って火を放つ

【要因】
大戦の影響で物価が上昇し米の価格が上がったが、
その物価上昇に人々の賃金が追いつかないことによる不満から起こった

おが太郎
おが太郎

大阪朝日新聞が鈴木商店が米の価格をつりあげていると記事を書いたり、
朝日新聞は鈴木商店や関係が深い後藤新平を敵対する記事を度々書いたため
世間からはその後も悪い印象が残ることとなってしまいました。

長まろ
長まろ

風評被害だね。今でもこういうことはあるよね・・・

第一次世界大戦が終わる

1920年 東京株式市場の株価が暴落
1923年 関東大震災

おが太郎
おが太郎

買いまくって発注前に用意して売るという強気の姿勢が裏目に出てしまいます。

播磨造船所は船の価格暴落
相模湾を埋め立てる約3万坪の拡張工事中であった
買収した1916年は従業員270人であったが、戦後5700人にまで増えていた

神戸製鋼では2700人の従業員を抱えていたが
仕事はなく出勤するだけで6割の給料を支払っていた

おが太郎
おが太郎

他にも鈴木商店に関わる従業員はたくさんいました。
鈴木商店は人と人とのつながりを大切にする企業であったので
温情でリストラをあまり行わなかったそうです。

台湾銀行

1923年 台湾銀行からの借り入れが膨れ上がり2億2000万に上った
台湾銀行が介入し
持株会社を鈴木合名会社
貿易部門を株式会社鈴木商店に分離した

今まで金子直吉のワンマン経営から
合議制を取り入れ独占状態を抑えるのが目的

1926年 台湾銀行の総貸出額6割が金子商店となる

1927年 昭和金融恐慌

元々第一次世界大戦の反動で不況ではあったが
衆院本会議である政治家が討論時に事務方から渡されたメモを読み違えて
とうとう東京渡辺銀行が破綻しました」と言ってしまったことから
預金者が銀行からお金を引き出そうとして殺到
実際にいくつも銀行が休業に追い込まれてしまった

鈴木商店の借金は総額5億円(内3億7千万円が台湾銀行)

おが太郎
おが太郎

今の価値だと数千億円と言われます。
そんな状態だったので台湾銀行が融資を打ち切ることとなります。

1927年 鈴木商店経営破綻

金子直吉の家は家財一切含め台湾銀行に没収
鈴木商店関係者が金を集めて彼のために神戸に家を与えた

鈴木系列の60ほどあった会社は独立や三井の傘下にはいったのも多い

直吉は晩年、北海道で事業を起こしたり最後の最後まで金子商店の復活を夢見たが
1944年77歳でこの世を去る

まとめ

おが太郎
おが太郎

なぜ鈴木商店は破綻してしまったのかを考えてみました

①鈴木直吉のワンマン経営

三井は合議制をとっている
三菱は創業者の岩崎家がチェック機能を携えていた
鈴木直吉にブレーキをかける役目の人がいなかった

②台湾銀行に依存しすぎていた

他の財閥のように固有の銀行を系列下に置かなかった
銀行嫌いの側面が強く出ている(金融と産業の癒着)
生産こそ人間の1番尊い仕事と言う信念を持っていたため

おが太郎
おが太郎

鈴木商店の後世に与えた影響も考えてみました

良かった点

人を育てた
年齢が若くても大きな仕事を任せた

今にも繋がる企業を残した

例えば神戸製鋼、帝人、IHI、双日などがある
台湾も鈴木商店の影響があって工業化が一気に進んだと言われている

おが太郎
おが太郎

戦争って一気に富を得るもの。そして一気に没落するものでもあります。
世の中がひっくり返るような今では考えられない現象がこの頃は起こっていました。
歴史の中で埋もれた企業っていっぱいあるはずですね。

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