音声はこちら↓↓↓
https://www8.cao.go.jp/chosei/kokkikokka/kokkikokka.html 君が代~内閣府HPより抜粋
「君が代」の誕生
明治以前と明治以降での君が代のとらえ方は大きく変化した
905年 最初に君が代が記載されたのは、古今和歌集と言われている
古今和歌集は醍醐天皇の命により紀貫之がまとめたもの
ただ、その時点では「君が代」ではなく「わが君」であった
題知らず、読み人知らず(当時は身分が低かったからという説)
【歌詞の解釈】
わが君は 千世にやちよに さざれいしの いはほとなりて こけのむすまで
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最後まで説明しないのは、和歌の技法で説明しすぎないというものです。余韻を残すためですね。
「わが君は」の解釈
①醍醐天皇である説・・・醍醐天皇に捧げるための歌であった
②不特定人物(あなた)である説
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/74fec077ca9edb1bc28559d04eb39f7f.png)
この辺は「絶対こっち」っていう結論は出なそうだよね・・・
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
ただ、古今和歌集の中に天皇が僧侶に対して「君」と呼んでいる箇所があり、
その場合は単に「あなた」を意味しているだけで、天皇を意味していないんだよね。
だからここでも不特定多数なんじゃないかなぁと。
「千代にやちよに」
千年もさらにいく千年も(非常に長い年代)
「さざれ石の巌となりて」
さざれのさざはさざなみのサザ・・・小さいと言う意味
小さい石が大きな石になると言う例え
①石の中の石灰が解けてその石灰が小石をくっつける働きをすることによって大きな石になっていく
②一つの石が人間や動植物が成長するように実際に成長して大きくなると言う意味
心霊の宿っている石は歳とともに成長すると言う民間信仰があった
その時代に歌われた歌
「こけのむすまで」
苔が生えるまでの長い間
【訳】あなたは千年もいく千年も、小さな石が大きな石に成長するまでも長生きしてください
君が代(わが君)は
不特定人物(あなた)に対する長生きすることを祝う歌
当時、人生において一番おめでたいことは長生きすることであった
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特に赤ちゃん、幼児の死亡率が異常に高かったんですね。
今とは比べものにならないくらい生と死が隣あわせで、
長く生き残ることこそ幸せとされました。
寿命も短い時代なので、40歳を超えると祝われていました。
平安時代から江戸時代にかけて
平安末期には「わが君は」が「君が代は」と言う歌詞になっていった
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何で?どっちも現代感覚だと言わない言葉ではあるけど・・・
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「わが君」は主従関係を連想される人も多かったらしくて、
「君が代」のほうが、一般人にもなじみやすかったみたい。
あとは歌いやすさからの変化で、当時和歌は書くだけじゃなく歌うものだから、
「わ~がき~みは」より「き~み~がよは」のほうが良かったのかな(笑)
1013年頃 『和漢朗詠集』・・・漢詩、和歌を集めたもの
「君が代は」になっているものと、なっていないものが混同
君が代になっても、それが必ずしも天皇を指しているわけではない
江戸時代には正月におめでたいこととして君が代を歌う習慣があった
江戸時代の遊郭で好んで唄われた歌
「さざれ石が巌となりて」
小さな石が大きな石になる=勃起する男性器と解釈された
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いわ:男性性器
おと:女性性器
成る:合体
つまり、ずっと合体していたいくらい大きなものもってますねというお褒めの言葉なんです!
江戸時代の庶民にとってはおめでたい祝い歌でもあり、露骨な男女の歌でもあった
明治時代
1869年 横浜居留地で薩摩藩の兵がイギリス歩兵軍楽隊から軍楽を習っていた
(1871年が廃藩置県なので藩がまだ存在していた)
薩英戦争でイギリス軍から聞こえてくる勇ましい軍楽隊の音楽を聴いて取り入れようとした説がある
イギリス軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントン
「欧米には皆その国々に国歌と言うものがある。日本にもあるか」と聞かれた
日本には国歌といえるものは存在していなかった
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そもそも国として1つにまとまっていたわけではないもんね。
薩摩の歩兵隊長が薩摩琵琶曲の『蓬莱山』にあった曲の一部をフェントンに提案し
作曲したのが初代「君が代」となる(通訳が提案したとされる説もある)
1870年 東京越中島の軍事大演習の時に薩摩の兵が天皇の前で初めて演奏した
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フェントンの作曲した「君が代」は日本風ではなく西洋音楽って感じで評判が悪かったので、
その後、歌われることがなくなったらしいです。
今の君が代とは全然違うんですね。
1872年 各藩の兵が廃止され、薩摩の軍楽隊も廃止される
後に海軍の中に軍楽隊ができ、その中心は薩摩藩の軍楽練習生で構成された
1880年 今の「君が代」が作られる
それ以来学校の儀式等で採用され一般化する
★経緯 外国を訪問したり接する機会が多くなり、お互いの国同士で国歌を演奏することがあった。 そのため海軍省が宮内省に依頼して、すでにあった初代君が代を日本風のものにした。 いくつか候補となる歌を作りその中から選んだ。 審査員の中の雅楽部長林広守が、雅楽師奥好義に命じて作らせた。 そのため新「君が代」は雅楽調となっている。
1888年 海軍省は各条約国に対して「君が代」の楽譜を送付
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ただし、この時点ではまだ正式な国歌としての認識ではないんですね。
この頃から君が代が神聖なる天皇の統治のことを歌っているという解釈が徐々に浸透していく
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だけど、そんなに早く国民に浸透していったわけではないです。
日清戦争、日露戦争期においてもそこまで浸透していなかったです。
軍国主義への傾倒と君が代
大正末期から昭和初期にかけて日の丸の旗を振ったり、
君が代を斉唱し、万歳を叫ぶというのが徐々に日常化していく
学校教育の影響もあったと言われる
小学校修身用の教科書によると、君が代の歌詞の意味が書かれている 「我が天皇陛下のお治めになるその御代は1000年も10000年も いやいつまでもいつまでも続いてお栄えになるように」
式典などで必ず歌われる「君が代」が国民の中でも国歌のような存在になっていた
第二次世界大戦期においては国民の間でも歌われた
占領下のアジアで君が代斉唱が強制された歴史がある
占領下の国にとっては戦争時の歌としてのイメージが強い
戦後の君が代
戦後、連合軍占領下で君が代は自主的に学校教育などで歌われなくなった
1946年1月1日に昭和天皇のいわゆる人間宣言が行われる
天皇が神であることを否定し国民の象徴となる
しかし君が代は国歌という法的な根拠がないため、直接GHQのメスは入っていない
1958年 学習指導要領の改訂により日の丸と君が代の義務付けが始まった
君が代は各学年を通じ児童の発達段階に即して指導する
儀式などを行う場合には国旗を掲揚し君が代斉唱させることが望ましい
1998年 国立大学学部附属学校の協議会において
君が代の扱いが不十分である学校は予算措置で不利になる説明が行われた
文部省や教育委員会の代弁者となっていた校長は現場に浸透させようとする
一部の教職員から国歌でもなく、戦争のイメージが強い君が代を強制することに猛烈な反対
1999年 閣議において日の丸と君が代を国旗、国歌とする法案決定
小渕内閣から「君が代斉唱」⇒「国歌斉唱」に変わった
政府答弁書より
君が代の「君」とは大日本帝国憲法では主権者である天皇を指していたといわれるが、
日本国憲法の下では日本国及び日本国民統合の象徴である天皇であると解釈するのが適当である
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今では日本代表のスポーツや学校でも君が代を耳にするようになりました。
まとめ
①明治以前の「君が代」はあなた様を祝った庶民の歌
②明治以降、天皇を祝った歌に変わった
もともと存在していた天皇と言う1つの解釈が次第に大きくなっていった
③第二次世界大戦後~現在は、日本国及び日本国民統合の象徴である天皇と解釈される
君が代に対して色んな感情を持っている人はいる
・世界で最も古い歌詞の国歌(平安時代初期にはすでに古今和歌集で存在していた) ・歌詞が一番しかない「君が代」は、世界で最も短い国歌とされる
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
日本人の自然をよく観察して情景や変化をとらえる姿が素敵だなって思う!