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戦争前の食生活
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戦争前、当時の日本人は今とは比べ物にならないくらいたくさんの量の米を食べていました
年間消費量 約1200万トン
一人単位にすると
一日約3合(約茶碗6.6杯分)
都市部だと約3合半
お味噌汁に、僅かな漬物とかで、大量のご飯を食べるだけ
ご飯を食べるために、おかずがあった
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一汁一菜だね
魚や肉は本当にたまにしか食べれなかった
江戸時代よりは食生活は改善されてきたが、決して恵まれた食生活ではなかった
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象徴的なのが、1931年に書かれた宮沢賢治の「雨にも負けず」の一説で、
「一日に玄米4合と味噌と少しの野菜を食べ」の部分。
学生時代に暗記させられて覚えているけど、当時は質素な食事だなーって思ってたけど
この玄米4合って、、、めっちゃ食ってるじゃん!(笑)
※この部分は敗戦後、食糧難だったため3合に書き換えられた
当時の日本人はおかずがほとんどなく、大量のご飯を食べ続けるからビタミン不足になる
ビタミン不足により脚気になる人が多くいた
心不全や足のしびれ、むくみなど身体に支障がでてくる
時代背景
1937年 日中戦争が始まり、
1938年 国家総動員法が制定され、経済活動に国が介入することが始まった
1940年 贅沢品の製造や販売を制限する法律ができた
「贅沢は敵だ」「欲しがりません勝つまでは」等のスローガンが出てくる
1941年 日本とアメリカの戦争、太平洋戦争へとはいる
配給制
配給制度・・・限られた物資を国民に公平に分けるための制度
1941年から都市部から配給通帳制度が始まり、1942年に全国で実施された
世帯単位で配給切符が渡される
配給切符を持って小売店や地域ごとの指定された配給所へ行く
そこで配給切符を見せて、それに印鑑をしてもらって物資を購入
品目ごとに一人当たりの購入量が決められている
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これ配給って言われるからタダでもらえるのかって思うかもしれないけど、
お金もちゃんと払います。
これによって好きなものを好きなだけ買うことはできなくなりました。
これは買い占め防止や価格統制のため
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最近だとコロナ禍でマスクが手に入らず、値段が吊り上がったような感じですね。
買い逃しを防ぐため、毎回配給される場所には長蛇の列ができ、
並ぶ時間は1日2時間、中には4時間半にも及んだ
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そりゃ必死になるわな・・・
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
ちなみに最初に配給制になったものは何でしょう?
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んーわからない(笑)
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正解はマッチと砂糖!
マッチ:『ギンギラギンにさりげなく』ではなくて、当時火をつけるのにマッチは
多く使われていました。
マッチって小さい頃、丸刈りで顔が小さくてひょろひょろだったから『マッチ棒』みたい
ってところからきているらしいです。
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え、そうなの!てか今関係ないな(笑)
砂糖は主に海外からの輸入がメイン
当時の日本で多く製造していたのは沖縄や植民地の台湾
戦争によって日本本土への輸送に制限がかかってきた
そのため砂糖はぜいたく品だった
米、木炭、牛乳、小麦粉、肉、魚、卵などが次第に配給制になっていった
肉は貴重で配給は平均で月に1度とか
魚の配給は3日に1度
野菜の配給は2日に1度
当時の人は毎日何かしらの物資を求めて並ぶ必要があった
お米
1人1日あたりの配給量は2合程度
それまで食べていた米の量からすると2割ほど減らされた
配給が始まった当初は七部づき(白米の一歩手前の状態)
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米って稲から収穫された時はモミガラっていう皮に包まれていて、
その皮を取り除いた状態が玄米です。
周りにはぬか層やお米のへこんでいる部分(胚芽)、
この周りの層を7割、削った状態が7分づきで、完全に削って白いのは白米と呼んでいます。
その後、五分づき米になって
まもなくぬかを全部残した玄米に変わる
玄米は白米に比べてビタミン類が豊富な反面消化が悪く、下痢になったりする
どの家庭でも米を一升瓶に入れて棒でついた
つくことで、玄米のぬかを取り除いていた
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長まろも、つくの昔から得意だったよね?
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突きのおが・太郎と言えば知らないものはいないくらいだったな(笑)
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やめろ(笑)
まぁ今では健康だからと言って玄米食べる人もいるけどね。
なぜ戦争になると食料が不足するのか
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これよく勘違いするかもしれないけど、戦地に食物を送るからではないです。
戦地の兵隊に食料を送るとしても、国民の総人口は変わらないわけで・・・
そればかりか、戦地の兵士は餓死状態の人がたくさんいました。
よく日本兵の写真で、あばら骨がうきでているような極度に痩せた写真ってけっこう残ってますよね。
①食料を輸入に頼っていた
江戸時代の鎖国時は一部の例外を除いて基本的には食糧自給率100%
明治以降、人口増加もあって食の消費量は上がり続けていた
しかも日本は工場に力を入れて近代化を進めた結果、
国内の生産だけでは食糧をまかないきれなくなってきた
その後、当時日本の統治下にあった台湾や朝鮮で米の増産が進められた
国内消費量の約20%が台湾と朝鮮からの米
日本本土に必要な量をまかなうには、海を越えての輸送が必要だった。
しかし1943年に入る頃、戦争は劣勢に陥り
制空権、制海権を失っていった日本は孤立
日本本土では外から入ってくる物資はあてにできなくなった
1944〜45年の2年間は外からの米は1粒も入っていない
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台湾、朝鮮、満州といった植民地や占領地の食生活はもっと苦しかったらしいです
②食糧よりも軍需品の生産を優先
日本は米などの輸入を止めてその分を軍需品の材料などの輸入を優先
それにも関わらず政府は食糧増産・自給自足を呼びかけるが、多くの男性は戦地に送られている
戦地へ行っていない人も、14歳以上の男女の勤労が義務化し軍需産業へと駆り出されている
そのため国内の軍需品以外の食糧や物資の生産力は一気に落ちる
戦時下の食事の工夫
・水の量を多くして嵩増し
・小麦粉などで作ったすいとん
米の代わりに芋が主食となっていく
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これは江戸時代の飢饉の時も多くの庶民を餓死から救いました。
芋って主にじゃがいもやさつまいものことなんだけど、
気候や土壌に左右されず基本的には育てやすいから抜擢されました。
当時、学校の校庭、庭、空き地など使えるとこは使って栽培した
1944年に入るとサツマイモの次は、一家に1株かぼちゃの栽培を推奨された
サツマイモは苗から育てる必要があるのに対し、かぼちゃはその辺に種を巻けば、
勝手に芽が出て、花が咲いて、実がつくまで育つ
しかも貯蔵性に優れ、夏に収穫したかぼちゃは冬まで持つため
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ちなみにこの当時のかぼちゃは、日本かぼちゃって言われるものです。
今は、西洋かぼちゃが主流だから、日本かぼちゃを見ることあんまりないですね。
西洋かぼちゃに比べると、日本かぼちゃはごつごつしていて甘みが少なく、粘り気が強いらしい。
戦時中はかぼちゃの葉や、花まで全て食べた
戦争末期になると野菜は生で食べた
刻んだり洗ったり火にかけたりして栄養や量が減ることを避けるため
そのまま皮とか根も葉も食べる
その他にはイナゴや野草まで食べた
農村と都心の逆転
戦時中は農村と都心の暮らしが形勢逆転した
戦争前は農村部の暮らしは困窮していて
都心部は比較的裕福な暮らしをしている人が多かった
戦時下では逆転する
都会から食べ物が消え自給自足の農村には食べ物が残っている
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これ、白洲次郎が都会の家を売り払って農村で自給自足したエピソードがありますね。
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武相荘だね!行ったけど番外編にしなかったやつ(笑)
闇取引
配給が滞るようになりどうにかして食材を確保しなければならない
・汽車に乗って郊外の農家に直接買いに行った
・闇取引と呼ばれる非合法手段で食材を確保
1939年に価格統制令が施行されて以来すべての物資は政府が決めた値段で取引することになっていた 闇取引はこの価格統制令で決められた値段よりも高値で売買している 何倍、何十倍の価格になっていた例もある 非合法のため見つかれば没収され処罰される
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今で言うダフ屋みたいなもんだな
まとめ
戦時中は食料が不足し、栄養失調や飢えで亡くなる人が多く
特に赤ん坊、子供、お年寄りなどの多くが亡くなったと言われている
それ以上に悲惨だっと言われるのが戦後
空爆によって破壊され、家もなく、焼け跡のバラックでの生活
戦地から戻ってくる人達がいるし、台湾、朝鮮、満州、南樺太などを失い、
引き上げてくる人達も大勢いた
しかし日本は食料が不足していて、多くの人が飢餓で亡くなっている
戦後、東京では上野駅付近で、餓死者が1日平均2.5人いたとされる
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
戦争になれば必ずまた同じことが起こります。
それ以上の悲劇が起こる可能性もあります。食料自給率が戦後よりも下がっているので。