日本ではいつ頃拷問や処刑が存在したか
古事記の「天岩戸伝説」のあとに閉じこもる原因をつくったスサノオに対して
「手足の詰めを剥がされ髪の毛を引き抜かれた」という記述がある
大体8世紀ごろには拷問のような概念はあった
『隋書』にも6~7世紀の日本で以下の記述がある
「木で膝を打ったり、弓の弦で叩いて自白を促した」
『魏志倭人伝』に「倭人の社会では罪の重いものを死刑にしている」記載あり
刑罰の概念は少なくともそのころから存在した
犯罪者の命をもって罪を償わせる概念は古くから存在していた
江戸時代の刑罰
長まろ
おが太郎が思いつく有名な刑罰って何?
おが太郎
市中引き回しかな!
■市中引き回し
処刑される前に江戸城周囲などを周り刑場まで連れていく
罪状を記した旗を掲げながら罪人の名前や年齢などの木札を持った行列が行進
50人くらいの規模で市中を練り歩く
長まろ
意外に罪人はこの市中引き回しを楽しみにしていたとか
それだけ牢屋敷の生活が過酷だったからと言われています。
★処刑
①鋸引き
道に罪人を首だけ出した状態で埋める
その横に鋸を置く
立て札には「誰でも自由に斬っていい」ことが書かれる
刀で切られるよりも鋸の刃はギザギザしているのでなかなか切り落とされない
首が斬り落とされる感覚をじっくり味わうことになる
②蓑踊り
主にキリシタン弾圧に使われたとされる
防寒具や雨具として使用される蓑を着せて油をかけられ火を付けられる
あまりの熱さに暴れ飛び跳ね、地面に倒れこみ悶えながら死ぬ
その姿が踊っているように見えたことから蓑踊りと呼ばれる
③三段切り
宙づりにした状態でまず下半身を切り落とす
そうすると頭の重みでくるりと体が反転するのでそこで首と胴体を切り離す
頭部、上半身、下半身の三つに切り分けられるので三段切りと呼ばれる
長まろ
三段切りは処刑人の方が大変なんですね。
見せしめのため一般公開の中、一太刀で成功させなければいけない
宙づりで揺れる受刑者を斬るのは至難の業だったと言われます。
★拷問
①鞭打ち
いわゆる百叩きの刑
背中や尻、太ももに対して攻撃を浴びせる
皮膚が破けて出血をする
②石抱き
そろばん板という三角形の木材を並べた上に正座させられる
体は柱に縛り付けられ身動きは取れない
肢へ石版を積み上げていく(大体5枚まで)
※石版は重さは約50キロ
重みで足が木材へ食い込んでいく
あまりの苦痛に泡を吐いて顔面蒼白になる
③釣責め
後ろ手にされて手首・腕が縄で縛りあげられる
胸と二の腕を緊縛し縄の先端を天井のつるし輪に通して引っ張り上げる
この状態で10センチほど浮かんだところで固定し放置される
宙づりのまま長くいると腕や胸に全体重がかかって縄が体へ食い込んでいく
縄周辺の肌がだんだんとうっ血する
1時間もすれば我慢も限界に来る
④海老責め
ひときわ恐れられた拷問
あぐらをかかされ両腕を後ろ手に縛る
そのまま両足を重ねて縛られ、肩や腕に縄をかけ引き絞る
こうすることで体が強制的にかがめられて顎とあしが密着した状態で放置
背中が曲がった姿勢が海老に似ているから命名
胸が圧迫され呼吸が苦しくなる
血が凝固して体の各部が紫色に変色していく
他の拷問に耐えたものでも海老攻めによって自白をしてしまうほどの辛さ
長まろ
拷問は基本的に物的証拠があり、罪を白状させるために行われました。
中でも恐れられた海老責めは他の拷問にも耐えた屈強なものだけに行われるものでした。
まぁ最終的に罪を認めれば処刑だし、認めなくてもずっと苦しい想いをしなくてはいけないので・・・冤罪だったらたまったものじゃないですね。
残忍な刑が生まれた理由
諸説あるが武士の時代になると敵への見せしめや、裏切りを防ぐために行われた
あえて公に残酷に処刑することで抑止力とした
中でも戦国時代には様々な拷問刑が生まれ、江戸時代にも引き継がれていった
残忍な刑罰は世論の移り変わりとともに、徐々に無くなっていった
参考文献
長まろ
江戸時代だけでなく日本において行われてきた拷問・処刑方法が記載されています。
今回はこの本に書かれていることから紹介しました。