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事件の背景
元々インドネシアはオランダ領として統治されていた
1609年 オランダが東インド総督を置いて本格統治開始
コーヒー、サトウキビ、藍、茶、タバコなど
国際市場で有望な農産物を現地で栽培させる
これらの物は安値で買い上げられる⇒搾取
米作だったところを別のものに変えたため飢饉も発生
その後倫理政策によって強制栽培は緩和されるも
油田開発が進められていく
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資源搾取の構図は変わらないんですね
学校教育などにも力を入れたおかげもあって
インドネシア人も知識層が増え民族自立の兆しが出る
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でもオランダは独立を認めることはありませんでした。
そんな中を日本が進出していきます。
1939年 第二次世界大戦
1940年 5月15日オランダの降伏⇒オランダ本国はドイツが占領
インドネシアはオランダ亡命政権傘下であり続けた
1942年2月 蘭領インドネシアに日本軍が侵攻⇒全面降伏
これ以降、終戦まで日本の軍政下におかれる
350年続いたオランダによる支配の実質的終了
日本統治時代
日本はインドネシア人優遇政策を取る一方で
大東亜政略指導大綱に基づき、日本語教育を行うなどの皇民化政策を行う
独立に対しては支援していく方向でスカルノやハッタなどを中心に独立の準備は進められていた
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日本としては大東亜共栄圏の一員であれば独立してようがいまいがどっちでも良かったんでしょうかね。いずれにせよ資源が欲しかったのは疑いようもありませんが。
1945年8月14日 日本の敗戦が決まる
同年8月17日 インドネシア独立宣言
インドネシアは戦争中に連合国が来なかったため
駐留していた日本軍はほぼ無傷で残留したまま終戦を迎えた
終戦後のインドネシア
日本軍の武装解除が行われる
8月26日 ラングーンでの協定に基づき治安維持は日本軍が責任を負うこととなる
連合国軍の兵力は微量で治安交代任務が進まなかった
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この時点で日本軍はほとんど武装解除ができないため、武器を持ったままでした
インドネシア独立派はオランダとの戦争に備えるため、
日本軍に武器引き渡しを求める
日本軍は連合国から拒否するように命じられていたためこの要求を拒む
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そりゃ渡したら良からぬことに使われるわけですからね。日本としては連合国に降伏してる立場からも早々武器を渡せません。しかしインドネシア独立派の要求はエスカレートしていきます。
9月に入ると日本軍の部隊や倉庫襲撃、武器を強奪する事件も発生する
連合国軍の進駐が進むにつれて焦ったため独立派は行動に出た
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日本軍は対応に苦慮します(板挟みですもんね)
東部ジャワのスラバヤでは日本軍が連合軍に武器を引き取るお願いをして
連合国側がOKを出すが、以降の治安維持は現地人警察に任せる
⇒結果的に独立派が武器を手に入れる
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現地の警察もインドネシア人だから言ってしまえば独立には賛成の人たちなんですよね
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まぁそうなるよね(笑)
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スラバヤの先例を他の地域の独立派も求めることになりますが、
当然ながら武器渡したら独立派にそのまま渡されてしまうだけなので・・・
次第に暴動は大きくなります。
ジャワ西部のバンドンでは
日本軍の憲兵隊、自動車部隊、飛行場を襲撃
10月10日に日本軍が鎮圧(日本人3名、インドネシア人10数名死亡)
同じく西部ガルーでは日本兵42名が無抵抗のまま全員殺害される
ブカシでは竹下海軍大佐一行86名が拉致され殺害
いずれも武器提供を拒んだため
中部ジャワでも武装した独立派の攻撃を受けている
日本軍300人と民間人100人が投降するも、
4か月間劣悪な環境下で投獄されたため赤痢や栄養失調で多数が亡くなる
スマランでの独立派運動
スマランでは連合国軍の到着は遅く、10月中旬になっても日本軍が治安維持を行っていた
10月12日に独立派群衆が日本軍駐屯地に訪れ武器引き渡しを求める
同月14日にも再度求めるがどちらも日本側は拒否
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武器を引き渡すように求めている人たちは血気盛んなわけで、
そんな人たちが多い場所なので治安はかなり悪くなっていました。
日本軍は駐屯地から出れない状態だったとか。
スマラン製鉄所にいた日本人339人が現地警察に拘束、
市内の日本人含む外国人約2000名が刑務所に監禁される
マゲラン駐屯地の日本軍10名が武器を強奪され殺害される
10月15日早朝 日本軍が武力行使する
5日間にわたる武装勢力との戦闘で日本軍が勝つ
10月19日 日本軍とインドネシア人民治安団で停戦協定が結ばれた
スマラン事件の結果
インドネシア側は1000~2000名が亡くなった
日本軍は28名が戦死、15名行方不明
刑務所に監禁されていた日本人149名が殺害されていた
停戦後も治安は回復しなかった
スマランから50km離れた都市で日本の工場が襲撃
従業員53名が殺害される事件もその後起きてしまう
また、インドネシア独立派に日本軍の小銃4万丁が渡った
インドネシア独立戦争で英蘭を苦しめることになる
1949年のハーグ協定でオランダがインドネシアを放棄
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これでようやくインドネシアは独立を果たすわけです。
インドネシアの独立には日本人の血も多く流れたわけです。
スマラン事件の後、治安維持任務の終了した日本軍は次々と日本へ帰還しますが、
一部の日本人兵は現地に残ってインドネシア独立派と共に闘い続けたのです。
そのことをインドネシアの人たちは今でも語り継いでおり、
日本に対して親交の気持ちを持っていてくれています。