五・一五事件

昭和
長まろ
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「この日誌はわが遺言なり、同志諸君実現を頼む」

昭和海軍の青年将校運動を語る上で外せない人物である藤井斉の日誌に書かれた言葉です。

犬養毅について

1855年生まれ
名字帯刀が認められるような良い家柄の生まれ
5・15事件当時は76歳であり、すでに政界引退をしていたが
派閥対立により首相候補がまとまらない事態に陥っていたため
政党同士の妥協策として犬養を首相に選出していた経緯があった

長まろ
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五・一五事件に巻き込まれなければ静かな余生を過ごせていたかもしれないですね。

五・一五事件の概要

1932年5月15日に海軍将校らによって首相官邸や内大臣官邸を襲撃
当時首相の犬養毅が射殺された事件

事件の経緯

背景

当時は世界恐慌の後で日本は貧困にあえいでいた
特に農村部では身売りなどが横行するくらい
また、家督を継げない次男以下は兵隊に送られた
戦死することが家を助けることと言われて送り出される兵士もいた

1930年 ロンドン海軍軍縮条約
英・米・日の補助艦保有比率を10:10:6.975とすることなどが定められた
当時の浜口雄幸内閣は国際協調路線を推進
本当は7割を希望していたが妥協案で0.025割を削った

希望量を達成できずに条約調印したことで批判が続出した
特に海軍は予算の削減も相まって不満を募らせていた

一部のお金持ちが政府を牛耳っている
軍部による新たな政治体制を作るべき
国家改造運動が高まることになる

事件の流れ

実行犯は4組に分かれて各所を襲撃した
・首相官邸
・内大臣官邸
・政友会本部
・三菱銀行

長まろ
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放送でも首相官邸のみを取り扱っているので、首相官邸だけ記載します

実行犯は三宅卓ら海軍中尉を筆頭に総勢9名
午後5時に靖国神社へ拝殿、これからの行動内容を説明
表門と裏門に分かれて襲撃することと、
犬養は度胸が据わっているため、面と向かい合わずにすぐにやることを決めた

タクシーで首相官邸に向かう
運転手を脅し門を無理やり通過させ表玄関に横付けさせた

そこで警官1名と出くわした
騒ぎを大きくしないために武力を使わずに総理に面会したい旨を伝える
応接室に通されたが、その間に守衛が門に集まって来ていた
ぐずぐずしている時間はなく実力行使するしかないと判断、
銃を抜いて先ほどの警官の後を追って問い詰める
ひとりが拳銃を発砲し、守衛や警官が逃げ出した
その間に手あたり次第部屋の扉を開けて犬養首相を探した
探している間に田中五郎巡査と遭遇し、
首相の居所を聞いたが反抗的な態度であったので三上は腹部を撃った

長まろ
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この傷が元で田中巡査は亡くなってしまいます

日本間の奥で犬養首相が座っているのを見つけた
犬養は暴漢が襲ってきているのは知っていたが
逃げずに会って話をすると言って彼らを待っていた
犬養を見つけた三上はすぐに犬養に向けて持っていた銃を発砲するが
三上の持っている銃は1発しか打てない銃だったため不発に終わる

長まろ
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先ほど田中巡査を撃ってしまったことを忘れていたんですね

犬養は「話せばわかる」と繰り返し言って三上たちを説得しようとした
三上は犬養の最期の言葉くらい聞いても良いと思って、
犬養を連れて客間へ移動する

犬養は煙草を勧めたり靴を脱げと言ったりした
三上が何か言い残すことはあるかと尋ねると
犬養は何かを話そうとした矢先に
「問答無益、撃て」と別の者が叫んだため何名かで一斉に銃撃した

銃弾は犬養の頭に当たって倒れたので仕留めたと思いとどめは刺さずにそのまま立ち去った
しかし犬養はまだ息があった
「あの若者を呼んで来い、話せばわかる」と終始繰り返していたとのこと

しかし容体は悪化して23時ころに亡くなった

その後

長まろ
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実行犯は比較的に軽い罪で許されてしまったんですね。

今も昔も国家反逆罪は最高刑死刑なので、普通に考えれば死刑が妥当なはずですが・・・

当時の裁判制度が今と異なり分離裁判が行われていたため
軍人と民間でそれぞれ所属に応じて裁かれる
→軍人は軍法会議

長まろ
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結果的に軍人が軍人を裁くので、甘い判決となった可能性はあります

また実行犯の代表格の三上卓は弁論家であった
裁判にて巧みな演説で聴くものを同情せしめたことも減刑の要因とも言われる

政党政治の終焉

政党から内閣を選ぶ時代が終わった
これは政党から選出しても軍部の暴走が止められないためである

次の首相には海軍大将の斎藤実がつくことになった
五・一五事件をきっかけに結果として政治に軍部の声が大きく取り入れられることになった
→日本は軍部主導の政治体制へ進んでいくことになる

長まろ
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戦前日本の国家体制に大きな影響を与えた事件となりました。

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