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今回はオトラーさんからのリクエストにお応えして「満州移民」について話したいと思います!
はじめに
朝鮮半島の真上に位置する満州
この満州に約27万人ほどの日本人が移民した
日本は北米や南米など移民をしてきた過去がある
アメリカでもブラジルでも日系社会は現在でも存在し
日系アメリカ人、日系ブラジル人などは聞いたことがあるだろう
しかし満州に関しては日系社会は存在しない
これは満州国崩壊とともに満州移民の存在は姿を消したためである
時代背景
1931年 満州事変によって日本は武力で満州全域を実質的に支配
満州国建国から2年後、愛新覚羅溥儀を皇帝として満州帝国が誕生した
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溥儀は清王朝最後の皇帝だった人です
表向きは五族協和(漢、満州、蒙古、朝鮮、日本)
五民族が協調して暮らせる国とするスローガンを掲げたが、
実際は支配している日本人が優遇されている
満州移民について
広田弘毅内閣が誕生
国策として二十カ年百万戸送出計画
20年間で100万世帯、500万人の日本人を満州へ移民させる計画
当時日本本土の総人口は約7千万人
満州移民約500万人の計画というのは、日本の総人口の7%に相当
●国の目的
農村の貧困が問題となっていた。
これは人口過剰による農地不足から起こっていて
人口が多い日本から、人口が少ない満州へ日本人を移動させれば
人口と土地の問題が一気に解決できる
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実際は開拓しても採算が取れない日本経済に問題があったので・・・
満州移民の本当の目的は
①移民によって満州の支配を強める
②ソ連からの防衛
であったと言われてます。
移民の仕組み
国策のため渡航費の全額補助や、農具や家畜などの補助金も出る
文村移民を決定した自治体には国から特別助成金が降りる優遇政策をとっていた
しかし反面、10年以内に帰還したものは寄留者として扱われる
元の本籍には住むことはできない
さらに、補助金の返納もしなければいけない
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満州移民は実質片道切符だったんですね。
だから実際は思うように集まらず・・・
1938年に16〜19歳の子供達を集め送り出す満蒙開拓少年義勇軍ができる
太平洋戦争が始まると人員確保のため年齢が14歳まで引き下げられた
国内で数か月訓練し、現地の満州で3年ほど訓練した後、入植する
開拓団は軍隊と違ってどの年齢層も、性別も関係なく全員が対象者となる
●総数
全国から満州移民をした満州開拓団と満蒙開拓青少年義勇軍の合計約27万人
開拓団の数は800
●開拓なのか?
最初は移民という言葉が使われていたが、
途中から政府があえて開拓民と名称変更している
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移民っていうと、単に他の国へ移り住むことで
開拓っていうと、未開地の荒れた大地を開墾していくイメージだよね。
実は、開拓団としていった人達でさえ、多くがそう思ってた。
だけど実際に行って見ると、開墾された田畑が用意され、家まであった。
これは現地にそれまで住んでいた人から、通常の土地価格の1割にも満たない
不当に安い価格で強制的に買収し、用意されたものが大半です。
確かに、一部未開拓の部分もあったけど、
とてもじゃないけど、この開拓って言葉は現実とかけ離れている!
だから、教科書にも補足を入れてください!(笑)
移民した人たちの思惑
満州移民は、最後まで公募制を採用していた。
経済的理由
世界恐慌のあおりを受けて、農村では貧しい人が多くいた
そこに国策として補助金が出て優遇される満州移民は魅力的に映った
満州移民は他の移民とは異質で低賃金で働く労働者の扱いではなく、
最初から農業経営者としての地位が保障されていた
実際、入植地の農業労働はそれまで満州にいた現地の農民を雇い働かせたりしていた
戦争に巻き込まれるのを避ける
満州へ開拓団としていけば、兵役免除になるとされていた
満州には空襲もなければ本土決戦の不安もない
実際に、戦争末期には空襲で家屋を失った人たちが満蒙開拓団として参加するケースもあった
また、ソ連とは日ソ中立条約があって安全と思われていた
それと満州には当時無敵と言われた関東軍がいた
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結果はソ連に攻められて悲惨な想いをするんだよね・・・
勧誘
国から県、各自治体へと満州を推奨する流れがあって、
映写会や相談会など、大々的に勧誘活動が勧められた
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例えば、村の偉い人から熱心に勧められるとか。
村社会で生きている人達にとって、有力者に逆らうことって大変な事だよね・・・
周りで行く決断した人が出てくると、お前が行くなら俺も行くっていう仲間意識的なものが強かったんですね。
学校でも募集が行われ、
教員から直接満州移民を勧められるケースも多かった
長野県 ~最大の移民送出県~
約3万7千人の移民を送出している
2番目は山形県で約1万7千人なので2倍以上引き離している
長野県は終戦を迎える1945年まで送り出しが続いている
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何で長野県が多いの?
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結局なところこれが理由だ!って特定するのは難しくて、様々な要因が重なり合って
結果、長野県が一番多くなっているんですね。
①養蚕業として栄えていた村が多くあった
世界恐慌の影響をうけて繭の価格が暴落
山間地の多い地形的な問題もあって養蚕以外の転作がうまくいかなかった
長野県は一世帯あたりの耕地面積が少ないケースが多く新たに開墾できる土地も少なかった
②組織的な力が強かった
標高が高く気温も低く山林が多くて耕地面積が少ない地方を
国は満州移住の重点的な対象としたことで長野県は注目されている
政府の方針を実行するために、県から市、市から町・村へと満州移民が推奨されていく
1922年に設立した「信濃海外協会」という民間団体 長野県知事を総裁として、海外思想の普及と海外移民を支援する目的て創られた。 それまで南米を重点的に移民活動をしていたが、満州移民に力を入れるようになった。
各ローカルメディア 例えば、信濃毎日新聞も満州移民を支持して記事を書いた 各村の応募状況を競わせるように報じたりなどした
長野県議会だったり、信濃教育会も移民を推奨していった
長野県全体で移民に向けた動きが強く、
勧誘のための座談会、映写会が頻繁に開催された
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結果、色々な要因が重なり合って、長野県が突出して多くなったのではないかな。
ソ連参戦
1945年8月8日 ソ連は日ソ中立条約を破棄し日本に宣戦布告
満州でも北からソ連軍が侵攻してきた
日本は満州の4分の3放棄をして、南方へ多くの部隊を移動させる作戦をとった
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これは沖縄の時と似ているのですが、持久戦に持ち込むためでもあったんですね
「根こそぎ動員」
満州にいる18歳から45歳までの日本人男子約25万人を現地の軍隊に組みいれた。
多くが満蒙開拓団の男性だった。
開拓団へ行けば兵役はないと言われたのだが結果的に満州で召集されることとなった。
武器は全ての人には行き渡らず竹槍で武装する部隊さえあった。
南方への避難は、軍や南満州鉄道の社員らの家族から先に輸送を開始している
他の民間人が蒸気船に乗って避難しようとした時、
船を降りるよう関東軍に命じられ軍の輸送を優先しているケースがある
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残された、女性や子供、お年寄りは、
①ソ連兵に襲撃され、射殺されたり、戦車にひかれて下敷きになって殺されたり、強姦された
②日本に対する恨みから現地の中国人に襲われることもあった
中には日本人の子供を引き取って、育ててくれたケースもある
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残留孤児問題だね。
追い詰められた開拓団では集団自決をするケースが多々あった
当時は捕虜になって命乞いするより、潔く死を選ぶことが尊い生き方と教えられた
母親が幼い子供に手を合わせ、後ろから紐で首を絞めて殺してから自殺するケースもあった
・兵庫県の高橋村の開拓団:500人中約300人が呼蘭河に投身自殺 ・瑞穂村開拓団:約500人が服毒自殺
満州へ移り住んだ人の犠牲者は、合計で約8万人を超える。
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約27万人行ってるから、3~4人に1人は亡くなっている計算ですね
生き残ったとしても、ソ連につかまりシベリア抑留にあう人達も多くいた
難民となり、幼い子供は孤児となったりと、
日本に返れない残留邦人が約1~2万人いた
日本の政府は、満州へ残された日本人を早期に引き上げをすることをしなかった
理由は敗戦後に予想される国内の混乱、食料、物資の不足などがある
1972年 日中国交正常化によって、残留邦人の存在が明るみになって
ようやく帰国ができるようになったケースも多々ある
それでも、まだ残された人達も大勢いる
また、日本に返った満州移民の人達は、満州帰りと言われ差別を受けることになる
例:国のために亡くなった軍人と開拓民を一緒にして慰霊祭をしないでほしい
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国策で行った開拓団ですが、彼らを守ろうと国はしなかったことが悲しいなと・・・
満州に渡り中国に残留した日本人女性の言葉を紹介します
「戦わされた男の人たちも大変ですが、社会で弱い立場の女性や子供たちが1番犠牲になっているようでなりません。そして戦争だったからと誰の責任でもないように、有耶無耶にされ葬られ1番先に忘れられていくものです。」