川島芳子
川島芳子(かわしま よしこ、1907年5月24日 – 1948年3月25日)
中国清王朝の王族の一人であり、日本で養子となり、
後にスパイや革命家として活動した人物。
彼女の生涯は波乱に満ち、特に日中戦争時における彼女の活動は多くの議論を呼んでいる。
幼少期と家族背景
川島芳子は、清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀の親族で、
満洲国の建国にも関与した一族の一員。
彼女の本名は愛新覚羅顕(あいしんかくら けんし)といい、
父親は清朝の軍人であった粛親王善耆(しゅくしんおう ぜんき)。
清朝太祖ヌルハチの孫の代から続く位を継承している王族
しかし、辛亥革命(1911年)による清朝の滅亡後、
善耆は満洲族の存続を図るため、日本に協力を求めた。
当時のモンゴルと満州は中華民国の支配を認めていないため、満蒙独立運動を起こした
芳子は日本の川島浪速(かわしま なにわ)に8歳で養女として送られた。
日本での生活と教育
川島芳子は、川島家で日本式の教育を受けた。
彼女は日本語を習得し、日本文化に馴染んでいった。
これにより、彼女は日本と中国の両方の文化に精通することとなり、
後の活動や運動に大きな影響を与えることとなる。
17歳のときに軍人との恋愛がきっかけで自殺未遂事件を起こす。
その後断髪して男装をするようになった。
「男装の麗人」と呼ばれ注目を浴びるようになった
容姿端麗で家柄も王族のため、
今でいうアイドル的な存在でした。
その2年後モンゴル人のカンジュルジャップと結婚
男装している芳子を良しと思わなかった父が勧めたと言われる
しかし結婚生活になじめず3年で離婚し、上海に渡る
そこで出会った上海駐在武官の田中隆吉と交際するようになった
田中が上海で行っていたスパイ活動に関わるようになっていった
満洲国の建国とスパイ活動
1932年、満洲国が建国
川島芳子はその設立に深く関与したとされる。
・愛新覚羅溥儀の皇后である婉容を天津から連れ出した
・上海日本人僧侶襲撃事件の実行を命令した
彼女は日本軍や満洲国政府のために情報収集やプロパガンダ活動を行う
活動が認められ熱河省自警団の総司令官に就任
これがマスコミに大きく取り上げられた
「東洋のマタハリ」、「満州のジャンヌダルク」と呼ばれる
大変人気があったため歌手としてレコード発売もされます。
彼女の活動は日本と満洲国の関係強化に寄与したが、
その一方で彼女の行動は多くの中国人からは裏切り者と見なされてしまった
そんな中、彼女にも変化が・・・
徐々に国内外での講演会などで関東軍の満州での振る舞いや
日本政府の対中政策を批判するようになっていった
そのため日本の軍部に監視されるようになった
日本人としての自分、愛新覚羅(満州人)としての自分、中国人としての自分
彼女の本当のアイデンティティはどこにあったのかはわからない
ただ孤独であったことは間違いないと思います。
日中戦争が激化し、大東亜戦争下では目立った活動はしなかった
天津で料亭の女将となった
戦後と裁判
第二次世界大戦が終結すると、川島芳子は中国国民党軍に逮捕され、
1948年に反逆罪とスパイ活動の罪で銃殺刑となった。
彼女の処刑は多くの議論を呼び、一部では彼女の代わりに別人が処刑されたとの噂もある
顔を撃たれていたから亡くなったのが彼女かわからなかったということもある。
しかし、公式には彼女の死が確認されている。
スパイだったかどうか
上海事変への関与は田中隆吉の証言のみ
他に記録は一切ない
そのためスパイであるとも無いとも言えないのが事実
しかし歴史的事柄を考えると川島芳子がスパイであったと言わざるを得ない
李香蘭への手紙
「利用されるだけされて、ゴミのように捨てられる人間がここにいる」
銃殺刑執行後にポケットに入っていた辞世の詩
「家あれども帰り得ず 涙あれども語り得ず 法あれども正しきを得ず 冤(ぬれぎぬ)あれども誰にか訴えん」
自分の信じる通りに行動したけどそれが正しいことではなかったと気づき悔やんでいるようにも思えますね。
真実はわかりません・・・