梶井基次郎について
1901年生まれ
1932年に肺結核で亡くなる(31歳)
文壇に認められた矢先に亡くなり、死後評価が上がっていった
・作品の特徴
自身の心境を投影した小説が多い
風景や身辺の出来事を題材に詩人的な側面が強い
また、独特の感覚から他人が真似できない表現
今回取り扱う『檸檬』はその魅力が詰まった作品です。
あらすじ
「」内は小説から引用してます。
私=梶井基次郎
「えたいの知れない不吉な塊が私の心を終始おさえつけていた。」
肺の病気や神経衰弱、背を焼くような借金が原因ではなく、
いけないのはその不吉な塊であると私は考えている
私は借金取りに追われるくらい金がなかった。
かつて好きだった音楽や詩に癒されることもなく
「何かが私をいたたまらずさせるのだ」
「なぜだかその頃私はみすぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている」
・壊れかかった街
・汚い洗濯物が干してあったりする裏通り
・おはじき
・花火の束
「生活がまだむしばまれていなかった以前の好きであった所は、たとえば丸善であった。」
「赤や黄のオードコロンやオードキニン。しゃれた切子細工や典雅なロココ趣味の浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水瓶。キセル、小刀、石鹸、煙草。私はそんなものを見るのに小一時間も費やすことがあった」
しかしこの頃の私にとっては重苦しい場所となってしまった。
ある日京都の裏通りをさまよっているときにとある果物屋で足を止める。
「そこは決して立派な店ではなかったのだが、果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた」
「何か華やかな美しい音楽のアッレグロの流れが、見る人を石に化したと言うゴルゴンの鬼面的なものを差しつけられて、あんな色彩やあんなヴォリウムに凝り固まったというふうに果物は並んでいる」
その日私はその果物屋でレモンを1つ買った。
レモン自体珍しいものではないけど、その果物屋はごくごく当たり前の八百屋に過ぎないから普段からレモンを見かけることはなかった。
「いったい私はあの檸檬が好きだ。レモンエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたようなあの単純な色も、それからあの丈の詰まった紡錘形の格好も。」
このレモンを握っていると始終私を抑えつけていた不吉な塊がいくらか緩んでくる。
・レモンの冷たさ
・匂い→産地カリフォルニアが想像に上って来る
・漢文で習った「売柑者之言」の一説が浮かんでくる
そして久しぶりに丸善に立ち寄ってみることにした。
しかし憂鬱が再び立ち込めてきてしまう。
次から次に画集をめくってみようとするが、気持ちがついてこない。
元の場所に戻す気力もなかったので画集が積み上げられていた。
そんなときに檸檬の存在を思い出し、積み上げた画集の上に置いてみた。
「私は埃っぽい丸善の中の空気が、その檸檬の周囲だけ変に緊張しているような気がした。」
そこで私は思いついた。
このまま檸檬を置いたまま丸善を出てしまうことを。
「変にくすぐったい気持ちが街の上の私を微笑ませた。丸善の棚へ黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けてきた奇怪な悪漢が私で、もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなにおもしろいのだろう。」
こんな想像をしながら京都の町を歩いていく・・・
よくわからないね・・・
ただ読んだだけだと何が言いたいのかわからないって人が多いので、解説をご覧ください。
解説
「檸檬」は主人公の置かれている境遇や性格のような描写が省かれて
感覚世界に没頭するような作品となっている
筆者の感覚で描かれた世界観であるため、わかりづらいんですね。
★ポイント1「時期を捉える」
大きく分けて3つの時期がある
「昔」と「その頃(作品の中の「今」)」と「今(執筆時点)」
昔は丸善に置いてある画集とかが好き
今(その頃)はそれらを見ると憂鬱になる
←汚い洗濯物が干してあったりする裏通りが良い
←果物屋も同様
★ポイント2「檸檬の存在が意味しているものを知る」
檸檬はポイント1で書いた時期で言うところの「昔」と「その頃」の2つを併せ持つ存在
最先端の西洋的なものが好き→どこか古ぼったいものが好き
・産地カリフォルニア・・・西洋的な象徴
・漢文で習った・・・古臭いもの
・あえて漢字「檸檬」表記も漢文を示唆するように意図的なものとされる
そんな今までの常識を覆す檸檬爆弾を西洋的な流行最先端の丸前に置くと言う行為は、これまで当たり前に良いとされていた西洋的な価値観に対するアイロニカルを込めているとされている。
う~ん、まだよくわからないな・・・
正直自分もこれ以上はわからないです(笑)
梶井基次郎の世界観に酔いしれたい人はぜひ読んでみてください♪