「江戸城無血開城」海舟&西郷による幕末の奇跡

出来事
おが太郎
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今更なんて言わせない~

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時代背景~江戸城無血開城にいたるまで

江戸幕府はかれこれ260年続いていた(1603年~)
元々は尊王攘夷思想が強かったが討幕派が勢いづいきていた
⇒下関戦争(長州)や薩英戦争を通じて攘夷の厳しさを痛感していたため

安政の大獄、長州征伐、長い幕藩体制に討幕派は不満を持っていた

おが太郎
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そんな中、慶応4年1月3~6日に鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争が開始されます

京都の南郊外の鳥羽および伏見
新政府軍が約5,000人、幕府軍が約15,000人
数の上では勝っていた幕府軍が大敗を喫することになる

徳川慶喜は大阪城から軍艦開陽丸で江戸へ敗走した
江戸に官軍が西から攻めてくる

徳川慶喜の選択

・徹底抗戦(主戦派)
・恭順(命令につつしんで従う態度)

主戦派が幕府の大半を占めていた
⇒海軍力は幕府側の方が圧倒的にあったことなどがある

おが太郎
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軍艦造るのにも数年かかるから、薩長は海軍力はほとんどない状態だったんですよね

徳川慶喜は恭順を選択することとなる

無血開城への流れ

おが太郎
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勝海舟の存在はやはり外せないでしょう

勝海舟は徳川慶喜と馬が合わなかったのだが
国際感覚豊かで幅広い知識を持っており
官軍と交渉できる人物として交渉役として抜擢される

おが太郎
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主戦派の小栗上野介や松平容保、新選組(甲陽鎮部隊)を江戸から遠ざけることで恭順の意思を示したとされてます

反面、万が一、官軍との交渉失敗にそなえて
江戸で火消しの辰五郎ややくざの親分などに
官軍が江戸に入ったら江戸を周囲を燃やしてその混乱の中徹底抗戦を呼びかける
その間に江戸の住民は漁船で逃がす計画を立てていたと言われている

おが太郎
おが太郎

山岡鉄舟も外せません!!!
身長188センチあったと言われてます

長まろ
長まろ

当時からしたら巨人だろうね(笑)
まぁ今でも188センチあったらでかいけど。

静岡まで来ていた官軍総大将 西郷隆盛と話し合いをします

西郷隆盛の条件
1.徳川慶喜は備前藩の池田家に預けること
2.江戸城を官軍に明け渡すこと
3.軍艦をすべて官軍に渡すこと
4.武器を官軍にすべて渡すこと
5.江戸場内に住んでる家臣は向島に移住
6、7 官軍側にたてつくものは鎮圧します

山岡鉄舟は「1.徳川慶喜は備前藩の池田家に預けること」だけは受け入れられない
備前藩(佐賀)の当主は徳川慶喜の実の弟だが、官軍側の藩で命の保証がない
⇒西郷は一度持ちかえって再検討することになる

おが太郎
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実は西郷隆盛と勝海舟は大阪で一度会っています。西郷から大久保利通あての手紙で「勝先生をひどく惚れ候」と書いているくらい、西郷は勝を尊敬していたとされています。

慶応4年 3/13と3/14
江戸の薩摩屋敷で西郷隆盛と勝海舟が会談

3/13 具体的な話はせず、顔合わせ程度
3/14 内乱が国を滅ぼす。降参している相手に戦いを望むのはそれは国のためではなく「私」個人的なものであると勝海舟は諭す。

勝海舟は以下のようにこの時の西郷とのやり取りを語っている
「さていよいよ談判になると西郷はおれのいふことを一々信用してくれ、その1点の疑問も挟まなかった」
そして西郷は「いろいろ難しい議論もありましょうが私が一心にかけてお引き受けします」と言って納得してくれた

話し合いの結果、上記の条件は変わった
1.徳川慶喜は水戸藩に預けること(慶喜が9歳まで育った場所)
2.江戸城を官軍に明け渡し後は尾張の徳川家が預かる

4.武器を官軍に一度は渡し、その後、徳川家に戻す

翌日3/15予定の江戸総攻撃は中止になった

無血開城への裏話

3/13 長州藩士木梨精一郎とイギリス公使パークスの会談
パークスは官軍の江戸討ち入りに反対
⇒相手が降参しているのに攻めるのは国際世論も許さない

おが太郎
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江戸で戦いが起こったら、外国人居留地である横浜も無事ではないし
イギリスの得意先も江戸に多かったから損得で考えてこう言ったのではないかなと思います

おが太郎
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また、海舟とパークスも事前に話し合いしていて、
万が一の時は徳川慶喜をイギリス軍艦に乗せ他国へ逃亡させることをお願いしています

おが太郎
おが太郎

徳川慶喜はその後隠居して趣味に没頭し、静かな余生を過ごしたとされています。
私にとって理想の生き方の1つです。

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