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永山基準とは
刑罰において死刑を適用する際の判断基準とされている
死刑適用の是非が争点となる裁判では度々引用される
永山則夫連続射殺事件
加害者:永山則夫(当時19歳)
1968年(昭和43年)10~11月にかけて
東京、京都、北海道、愛知で拳銃による連続殺人事件を起こした
アメリカ海軍横須賀海軍施設から拳銃を盗む
その拳銃を使って警備員やタクシー運転手を射殺
4人を殺害する凶悪事件であったが、当時は19歳で少年であった
そのため死刑適用の是非が争点となっていた
永山則夫連続射殺事件(ながやまのりおれんぞくしゃさつじけん)とは、1968年(昭和43年)10月 – 11月に東京都・京都府・北海道・愛知県の4都道府県で発生した拳銃による連続殺人事件。「永山則夫事件」[6]「永山事件」とも呼ばれる[3]。
永山則夫(各事件当時・19歳少年)が在日アメリカ海軍・横須賀海軍施設から盗んだ拳銃を使い、男性4人(警備員2人・タクシー運転手2人)を相次いで射殺した事件で、一連の事件は警察庁により警察庁広域重要指定108号事件に指定された[1]。本事件は「警視庁創立140年特別展」の来館者らに対し実施された「みんなで選ぶ警視庁140年の十大事件」のアンケート(2014年1月10日 – 5月6日に実施)[7]にて38票を得票し、第53位(うち警視庁職員の投票による順位では71位)に選出された[8]。
刑事裁判では事件当時少年だった永山への死刑適用の是非が争点となり[9]、永山への死刑適用の可否に関する論議のみならず[10]、死刑存廃問題に関する論議にも影響を与えた[10][11]。永山は第一審(東京地裁)で死刑判決・控訴審(東京高裁)で無期懲役判決を受けたが、最高裁での破棄差し戻し判決(1983年)を経て1990年に死刑が確定し(少年死刑囚)[12]、1997年に死刑を執行された[13]。なお最高裁は1983年に控訴審判決を破棄し、審理を東京高裁へ差し戻す判決を言い渡した際、死刑適用基準について初めて詳細に明示したが[14]、その際に示された基準(永山基準)は後に、死刑適用可否が争われる刑事裁判でたびたび引用され、広く影響を与えている[15]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B1%B1%E5%89%87%E5%A4%AB%E9%80%A3%E7%B6%9A%E5%B0%84%E6%AE%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6
永山則夫の生い立ち
1949年 北海道網走で8人兄弟の第7子として生まれる
父親はリンゴ農家、母親は行商人
父親が博打好き、酒好きであった
働かず酒や博打ばかりしていた父親だったようですね・・・
母親が家計を支えることになり、姉に面倒を見てもらっていた
耐えきれなくなった母親は子供を連れて実家(青森)へ帰る
しかし子供全員分の運賃を用意できず
永山則夫を含む4人の子は網走に置き去りにした
置き去りにされた4人はくず拾いなどで何とか食いつないだ
1954年 福祉事務所からの通報で4人は母親の下へ引き取られた
母親の下へは行けたが、家計を支えるため多忙な母は
永山を構うこともなく希薄な関係であった
また、津軽弁がしゃべれず学校では孤立
兄弟からの暴力にもあう
中学になると新聞配達などで稼ぐために学校にも行かなくなる
この頃父親も亡くなったり、母親が一時的に失踪したり
様々なことから非行に走ることとなる
いわゆる不良少年として万引きや博打などに手を染めた
1965年に東京に集団就職し、青果店で働く
そこでは真面目に働き店主からの信頼も得ることができた
だが過去の窃盗のことがバレてしまったと思い込み自ら退職
この頃から被害妄想に取りつかれる
兄弟にも見下されていると思い込み、当てつけで窃盗事件を起こし捕まる
その後は度々窃盗をしたり、自殺未遂をしたり心身共に安定しなかった。
家族からも見放されるようになり、ほぼ路上生活者と変わらないような生活となった。
そして永山事件を起こすこととなりました。
■事件の経緯 アメリカ軍横須賀基地から拳銃と弾50発を盗む 【1人目】 東京プリンスホテル敷地内に侵入、警備員に見つかり、捕まると思ったため 拳銃で狙撃。殺害した。 【2人目】 京都の八坂神社で神社警備員に見つかり、同様に殺害。 ここで警察に見つかるも、逃走する。 【3人目】 函館まで逃走し、金を手に入れるためタクシー運転手を殺害。 【4人目】 名古屋まで逃走し、同様にタクシー運転手を殺害し現金を奪う。 最終的に1969年3月、原宿で盗みに入ったところで警備員に見つかり、 逃走するも、その後警察に捕まる。
永山事件の争点
犯行時19歳であったが逮捕直後から実名報道された
起訴事実はほぼ全面的に認めていた
「このような事件を起こしたのは、当時の自分が貧乏で無知だったからだ。
永山の供述
何もかもが憎くてやった。
資本主義社会が自分のような貧乏な人間を作るから自分はここにいる」
ちなみに精神鑑定も行われましたが
犯行事の精神病を思わせる所見はなかったようです
壮絶な人生だよね・・・
そう、だから情状酌量の余地があるのかとか、犯行時が未成年であったので、そのあたりが争点になりました。
永山基準の成立
【裁判要旨】 死刑制度を存置する現行法制の下では、 犯行の性質、動機、態様ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、 結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、 犯人の年齢、前科、犯行後の情状等各般の情状を併せ考察したとき、 その罪責が誠に重大であつて、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも 極刑がやむをえないと認められる場合には、 死刑の選択も許されるものといわなければならない。
永山基準が持ち出されるときは被害者の数によって
死刑か無期懲役かで分かれるようなイメージがあります。
結果として永山則夫は1990年に死刑確定となった。
獄中では小説家として執筆活動を行い
新日本文学賞を受賞するなどした。
1997年に死刑が執行された。
著作の印税によって「永山子ども基金」が創設された。
【放送では言ってないこと】
永山則夫が死刑になったのは1997年8月
その年の6月28日にあの神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)の少年Aが逮捕されている
少年でも死刑になるというのを抑止のために実行したとも言われているとか・・・
証拠も何もない完全に憶測の内容なのでご容赦ください。
死刑の基準について
殺したのが1名なら死刑にならないか?
これは「結果の重大性こと殺害された被害者の数」と永山基準で使われたため
実際は殺した人数に関係なく、1名でも死刑になるケースはあります。
刑法第199条
人を殺した者は,死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する。
大切なのは過去の裁判例に囚われず
現在の価値観と裁判官の良心に基づいた判決を下すことと思いました。