義和団事件は中国(当時は清)で起きた暴動です
↓↓↓音声はこちらから
義和団ってどんな団体?
反キリスト教の宗教団体。
「義和拳」という拳法を使う武闘派集団。
昔の日本で言うところの僧兵のように武装もしてる危険なやつら。
呪文を唱えれば銃弾も弾くことができると信じられてたみたい…
当時の清国の状況は?
1842年 アヘン戦争に敗れる・・・対イギリス 1856年 アロー戦争に敗れる・・・対イギリス・フランス 1894年 日清戦争に敗れる ・・・対大日本帝国
要はボロボロ状態。
周辺国との冊封体制も崩れていて、自身の領土も欧米に租借されて半植民地状態。
欧米によって中国大陸は風前の灯となっていた。
義和団はそんな中国から欧米を追い出そうと外国人排斥運動を行うこととなる。
これが拡大していったのが「義和団事件」である。
義和団事件の経緯
古来から中国ではキリスト教も一部布教されてはいたが、規制されていたこともあり問題になるほどの数でもなかった。
しかしアロー戦争に敗北したことで、天津条約により布教の自由が認められ内陸部でも広まる。
それに伴って「仇教事件」と呼ばれるキリスト教徒と一般民衆の争いが起き、
日増しにキリスト教への憎悪が強くなっていた。
そこに登場したのが義和団。
山東省で発起した義和団は一時は鎮圧されるものの、
北へ逃れていきつつ難民を加えていき勢力は拡大します。
当初キリスト教徒が攻撃対象だったのが、外国人の排斥運動につながっていきます。
その際に義和団が掲げていたスローガンが『扶清滅洋』
清を扶(たす)けて洋を滅ぼすという意味です。
清朝も『扶清滅洋』を掲げる義和団を黙認してたみたい
初めのうちは義和団鎮圧を形だけ行っていた清朝政府だが、
結果的に義和団の支援をするため列強国に宣戦布告をすることとなる。
清も列国にいいようにやられてたから恨みが深かったんだろうね…
北清事変
厳密にいえば義和団事件と北清事変はちょっと違う。 義和団事件は義和団が起こした一連の排外運動からの反乱 北清事変は清朝が列国に宣戦布告したことによって起こった争い
各国の兵隊が並んでる写真が有名なんだけど、いろんな国が参加してるのがわかるよね。
日本兵の背は低いね!
列強国の動き
イギリス
当時南ア戦争(1899~1902年)で苦戦を強いられており中国に派兵する余裕はなかった。
アメリカ
イギリスと同じく、フィリピンで戦争中で派兵の余力はなかった。
ロシア
日清戦争で日本が得た遼東半島を返還させ、完全にロシアの支配下に置きたがっていた。
義和団の鎮圧は中国へ進出するいいきっかけであるため、派兵を決める。
日本
日本は三国干渉で遼東半島を返還する苦い思いをしており、
大陸への派兵は慎重であった。
しかし、南ア戦争で苦戦するイギリスが日本の派兵を承諾する形で、
ロシアの南下政策に対抗するために北清事変への介入を決めた。
各国いろんな思惑が渦巻いてるね
結果
日本、ロシア、イギリス、フランス、アメリカ、ドイツ、イタリア、オーストリア=ハンガリー
8か国連合軍対清(+義和団)の戦いは8か国連合軍の圧勝で終わります。
清は連合軍と北京議定書を結ぶことになり、多額の賠償金を負います。
まぁ当然の結果だよね・・・
清も結果はやる前からわかってたけど引けなくなっちゃったんだと思う。
義和団事件の影響
①清朝の滅亡の引き金となった
元々衰退はしていた清ですが、多額の賠償金を背負ったことで重税を課すこととなり
不満を持った民衆の暴動が頻発し滅亡へとつながっていきます。
②日露の対立激化
三国干渉ですでに仲が悪くなっていた両国ですが、
双方中国大陸へ進出したいため、お互いがお互いを邪魔な存在となっていて、
1904年の日露戦争につながっていく。
③日英同盟の締結
ロシアの南下政策を防ぐために極東地域の防波堤として日本を利用したいイギリスは、
当時どこの国とも同盟関係を結んでいなかった(光栄ある孤立)が、
日本との間で軍事同盟を結ぶことで対露包囲網を築き上げていくこととなる。
個人的に思うのは義和団事件は日本が国際貢献をした第一歩だと思う。
もし義和団を放っておいたら中国にいる列強国の人たちは皆殺しにされていたわけだし。
それを助けて、乱を鎮圧したことは日本が国際社会で認められるきっかけにもなったと思う。
一つの事件がその後の出来事と大きく結びついてるんだね!