たった一人、あなたに届ける「大人の近代史」です
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女優って昔はどうだったのか
「女優」 は、女性で、舞台やテレビ、映画など人前で演技をする職業
1600年頃 江戸時代の初め頃に女性が演じる「かぶき踊り」が人気。
それを真似た女性の集まり「女歌舞伎」が人気
1629年 女歌舞伎禁止、遊女が行う歌舞伎が流行り風紀が乱れた(歌舞伎は今でも男性のみ)
1872年 女性が大衆の前で演じる事を禁じたお触れを解いた
1891年 男女の演者が一緒に立つことが許された
貞奴とは
生い立ち
【本名】小山貞
12人兄弟の末っ子として生まれる
裕福な武家出身
4歳から踊りの稽古を始めた
家業は両替屋を営んでいたが、明治維新によりそれまでの幕藩体制が崩壊
新しい銀行制度ができて業界から締め出された⇒貧しくなる
4.5歳の時に濱田屋(芸妓の置屋)の可免吉のもとへ売られる
当時は身売りは珍しくありませんでした。
1872年に人身売買は違法となっていましたが、
しかし、実態は少しも変わっていなかったんですね。
芸子としてイロハを可免吉に叩き込まれ、人気の芸者になっていった。
その時の座敷名が「奴(やっこ)」であった
15歳のころ慶應義塾大生の桃介と偶然出会い恋をしますが、当時は好きな人と付き合う、結婚できる時代ではなかったんですね。運命は自分で決められない。
【水揚げ】
見習い芸妓の立場から、一人前の芸妓になる通過儀礼
選ばれる客は、特に財力の豊かな者など。
小さな家一軒くらいの値段で取引される。
要は「処女を捧げる」わけですね
おが太郎の好きそうな話になってきたな(笑)
いやいや(笑)
それで当時財力のある権力者の伊藤博文の愛人になるんだよね。(3年間)
年齢差30歳くらいあるのに・・・
川上音二郎との出会い
演劇会に新しい風として人気劇団を率いていた川上音二郎と出会う
その劇団では政治や世間を風刺的に演じたり、歌ったりした(オッペケペー節で)
西洋の服を着て西洋人をまねたり、芸者に有り金をつぎ込む人々などを風刺
歌舞伎や能と違い、儀礼的なものでなく、筋書もきまっていない現代劇
歌舞伎を旧派に対して、これを新派と呼んだ
この新派を作ったのが音二郎と言われている
エミネムみたいなイメージだね
その例えオトラーはわからないんじゃないか?(笑)
貞奴22歳の時に川上音二郎と結婚する
夫の劇団を陰で支える役目に徹した
音二郎は女性にもモテて女遊びもすごかったらしいんだけど
反面、芝居を追求することは熱心でパリに突然行って学んだりとかしてたらしい
借金を背負う
日清戦争を題材にした劇を行い盛況となるが
劇場を造るために多額の借金をし、利息が膨れ返せなくなってしまう
借金取りから逃げるために船の上で生活したり、放浪生活となる
そこで櫛引と出会い、アメリカのサンフランシスコへ行くことになる
アメリカでの成功
アメリカは女優人気がすごかった
男性だけの一団で女性役を男性がやっていたら客はこない
ましてや日清戦争をやってもアジアの事に興味ない
西洋人は芸者には興味があって、本物をみた人はほとんどいなかった。
そこで貞奴が踊りを披露する
その妖艶な踊りは神秘的に見え盛況となる
ただアメリカで支援してた人がギャンブルでお金を使い果たしたせいで
ホテルとかからも追い出されることになってしまいます
何日も食べられない状態でやっと舞台先が1つ決まったのですが、
極限状態だったから舞台の上で死ぬ演技をするときに本当に倒れたと言われてます
恋愛テーマは万国共通であることに気づき、
「芸者と武士の恋愛劇」を行うと大人気となりました
日本帰国後~晩年
●芝居の革命 ・当時舞台は1日中やるのが当たり前であったが、4時間とか数時間で完結させるようにした ・舞台が明るく、観客席が暗い技法を取り入れた ・劇場近辺の茶屋から席と座布団を買う、上映中に飲食物を売るのを禁止した。 ⇒1/3の金額でチケット販売できるようになる ・帝国劇場を大阪で立ち上げる⇒帝国女優養成所
1911年 音二郎が死去
その後福沢桃介の愛人となる
福沢桃介は福沢諭吉の娘と結婚してて、電力王とまで呼ばれた実業家です
1946年12月7日 75歳で死去
【貞奴が遺した言葉】 日本の女性たちが、アメリカの女性たちほど尊重されていないことは、ご存知かと思います。 日本の女性は男性のように教育も受けていませんし、その機会もありません。 私はこれまでずっと、機会さえあれば女性も男性と同じようにたくさんのことができるとずっと信じてきました。 女性がしたいことを行い、地位を得ているという外国の地をいつか見てみたいとどれだけ夢見てきたでしょう。とうとうそれが叶ったのです。
やってきたことを考えれば教科書に載ってもいいくらいすごい人だったんだね!