写真のふたりは大津事件で活躍した車夫です
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大津事件概要
1891年(明治24年)5月11日 日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が 滋賀県の大津市で警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した事件
今で例えるならプーチン大統領が斬りつけられちゃうようなものだね
やばいっしょそれ・・・
時代背景
1873年 岩倉使節団が帰国 1877年 西南戦争 1889年 大日本帝国憲法の発布 1894年 日清戦争 1904年 日露戦争
大津事件は1891年なので、ちょうど大日本帝国憲法が発布され、
日清戦争に至るまでの途中で起こった出来事
大津事件の経緯
ニコライの一行は長崎と鹿児島に立ち寄った後に神戸、京都へ
当時弱小国であった日本は大国ロシアを政府を挙げて歓迎、接待した。
京都では季節外れの五山送り火まで行われた。
普通なら夏にやる五山送り火をニコライのために急遽5月だったけどやるんだよね
O・MO・TE・NA・SHI感半端ないね!
京都から日帰り観光で琵琶湖へ その帰り道、
滋賀県大津でロシア皇太子ニコライ、ギリシャ王子・ゲオルギオスが
人力車に乗っていたところ事件が起こった。
ニコライ一行の警備にあたっていた警察官の津田三蔵が突然サーベルでニコライを斬りつける
ゲオルギオスが竹杖で津田の背中を叩き、車夫がサーベルで津田を斬りつけ取り押さえる
ニコライは頭に9センチの傷を負うが、命には別状はなかった
事件後、明治天皇自らロシア軍艦内に行って直接謝罪したんだって。
誠意を見せないとまずいって思ったんだろうね。
事件後の処分について
事件を起こした津田三蔵に対して政府は「死刑」を求めたんだよね
まぁ当時のロシアと日本の国力とか考えたらえらいことしてくれたな!って感じでしょう・・・
松方内閣は全閣僚を動員して、犯行を行った津田を死刑にするよう司法に働きかけた
旧刑法116条に規定する日本の皇族に対する殺人未遂は死刑が最高刑
これに異議を唱えたのが、大審院長児島惟謙(現在の最高裁判所長官)
「刑法に外国皇族に関する規定はない」
法律上は民間人と全く同じ扱い。
つまり死亡していないため最高刑は殺人未遂適用による無期懲役
罪刑法定主義 「法が定める犯罪に対して、法が定める刑を科す」
例えば不倫をしても死刑にならないよね!(イランはなるらしいけど・・・)
裁判の結果及びその後
判決
津田三蔵は無期懲役となった。
ロシアは不服だったが日本に対して特に制裁はなかった。
真摯にロシアに向き合った成果かもしれない。
「司法権の独立」が守られた結果でもあるよね!
その後の津田三蔵
二か月後に急性肺炎を発病し亡くなる。
何か陰謀を感じるなぁ・・・
でも神のみぞ知るか。
その後の児島惟謙
弄花(ろうか)事件 児島を含む複数の裁判官が金銭をかけて花札をやっていたいう疑惑がたち 大審院を辞職している
これもなんかハメられてる気がするなぁ。
ニコライを助けた2人の車夫が注目される
- 北賀市 市太郎
- 向畑 治三郎
ニコライを救ったことで一躍時の人となった車夫の2人です
事件後ロシア軍艦に招待された。 あえて人力車夫の服装のままで来るように要請された ニコライから直接勲章を授与され、当時の金額で2500円(現代価値で1000万円前後) の報奨金と1000円(約400万)の終身年金が与えられた。 日本政府からも勲章と年金36円が与えられた
しかし、お金を手にすれば必ずしも幸せになるわけでもなく・・・
向畑 治三郎は博打と売春、投機に明け暮れ、勲章を没収された。
さらに婦女暴行事件を起こし逮捕されている。
一方で
北賀市 市太郎は堅実に田畑を購入し地主となり、勉学を重ね議員にまでなった。
しかし日露戦争が始まるとスパイ扱いをされ、特に戦死者の遺族から非難を浴びた。
なんか極端な二人だね(笑)
お金があると人は二つに分かれるな・・・