🏯 江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜の歩み
⚔️ 幕府の終わりと恭順の選択
- 1867年 大政奉還を行い、政権を天皇に返上
- 翌年、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍は敗北
- 慶喜は戦わず、「恭順」=従う姿勢を選ぶ
👉 これにより、日本は大規模な内戦を回避!🕊️
🏞️ 静岡での隠遁生活(1868~1897)
🔒 謹慎と静かな生活
- 治安が悪かった水戸を避け、静岡(駿府)へ
- 徳川家ゆかりの寺「宝台院」で質素な暮らし
→ 渋沢いわく「薄暗く、畳の上に直に座る慶喜…」😢
🙏 謹慎解除(1869年)
- 新政府はあえて慶喜を許す
① 国の安定
② 有能な旧幕臣を登用するため
🏠 その後の暮らし
- 生活費は徳川宗家からの援助
- 家扶の給与や交際費にも困ることも😓
- 慶喜家の人事も宗家が決める…
→ 独立性はほぼナシ
🤐 政治から距離を置いた日々
- 政治には一切口を出さず
- 明治天皇が静岡に来ても、送迎には出ない
- 旧幕臣・永井尚志とは会わず、渋沢栄一とは会って話す
🗣️ 渋沢とは1〜2年に1度会い、しかし政治の話はNG
👨👩👧👦 子育てと庶民とのふれあい
- 2人の側室との間に**21人(10男11女)**の子ども
- 庶民の家に里子として預けることも🍙
→ 石工や米屋、煮豆屋まで!
🫘 煮豆屋の娘は「お豆一皿くださいな」とおままごと
🎓 現代の研究では、里子に出された子どもは知能が高い傾向も!
🎨 趣味に生きた毎日
- 狩猟・釣り・囲碁・将棋・写真📷
- 洋式自転車やビリヤード、コーヒー☕も楽しむ
- 明治20年代には、年間120日以上を狩猟や釣りに費やす
これが**「生きること」そのもの**だったのかも。
🏙️ 巣鴨へ移転、そして明治天皇との再会
- 理由:
① 高齢化と健康問題(尿異常→牛乳療法🥛)
② 窃盗被害による治安不安
③ 家族の独立や寂しさ - 明治天皇に初めて参内し、
以後、宮中行事にも参加するように✨ - 明治35年、公爵の爵位を授与🏅
→ 名誉回復、そして宗家からの“独立”
📚 晩年の活動と死去
- 渋沢栄一の提案で、自身の伝記『徳川慶喜公伝』作成に協力
→ 死後公開を条件に - 1913年(大正2年)75歳で死去
→ 歴代徳川将軍で最長寿!
🌸 最後に…
将軍の地位も、宗家の跡継ぎも手放し、
自分の信じる道を静かに進んだ徳川慶喜
権力にも、名誉にもすがらず、
「決断する」ということを最後まで貫いた。
💬 現代の私たちも、その潔さと冷静さから多くを学べるはず。
第二次世界大戦のように、
「やめる決断」ができずに被害を拡大した過去も思い出されます。
👉 慶喜の「引き際の美学」、今なお多くの人に支持されている理由かもしれません✨

おが太郎
今回の参考文献です