「岩倉使節団」近代化へ向けての旅立ち

人物

今日のテーマは「岩倉使節団」

おが太郎
おが太郎

日本の近代は岩倉使節団をなきには語れない

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岩倉使節団(いわくらしせつだん)とは?


岩倉具視を大使として1871年~1873年まで、1年9ヶ月にわたり
欧米各国12カ国を巡った使節団。

岩倉具視は、もともとは朝廷に使える公家
公家の中でも身分が低く貧しい生活をしていた
その中でメキメキと頭角を表し、江戸幕府を倒し、新しい明治政府をつくった実力者の一人

岩倉使節団って調べると5人が並んでいる写真が出てくる
真ん中に座ってるちょんまげがいる・・・これが岩倉具視
使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉はこのちょんまげ、和服姿でアメリカへ
日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、
アメリカに留学していた息子に説得され、断髪。以後は洋装へ。

岩倉使節団メンバー構成

大使:岩倉具視

副使: 木戸孝允 山口なおよし 伊藤博文 大久保利通
当時の実力者ばかり
 

副使の一人に山口尚芳「なおよし」という人がいる。
肥前藩 佐賀出身で初代会計検査院長に就任し、
その後20を超える役職につく 器用なひと

地元では「ますか」って呼ばれた

目元をよくみると、ぱっちりしている まるでマスカラをしているような
マスカラの語源とも言われて・・・・はないんだよね!

長まろ
長まろ

ないんかい!!!

イタリア語の「マスケラ」覆うっていうのが語源 まつ毛を覆うみたいな

時代背景

1840~始まったアヘン戦争

イギリスと中国(清)との戦争で清はイギリスに敗れる
日本にとって大国であった清の敗戦は衝撃

その後、日本では西欧の船が頻繁に来て開港を要求するように

1853年 アメリカのペリーが黒船を従えて日本へ来航

それまで日本は中国、オランダ、琉球、朝鮮と限定的に交易はしていたが、
他の国との交易を避け、いわゆる鎖国と言われる体制をとっていた
ペリーの到来で幕府との交渉が始まり、後に約200年以上続いた鎖国がおわり
日本は開国へと舵をきる

そんな日本国内の意見は割れ、幕府を倒そうとする討幕派によって江戸幕府は倒れ、
新しい新政府が誕生した。これを明治維新

1869年に明治時代が始まる

その2年後、1871年に岩倉使節団が日本を出発した

岩倉使節団とそれに同行した人達合わせて総勢107名で構成

使節団46名、随員18名、留学生43名。

男子の留学生は父親が新政府の重要な役職につく息子がほとんど

留学生の中に5名の女子留学生
実はこれ、旧幕府側の人達なんだよね!


基本、岩倉使節団は薩長を中心とする新政府側の人達で構成されていて、
女性にも今後活躍の場を広げてほしいという想いがあって、呼びかけたけど
なかなか集まらなかった。

当時、異国の地に大事な娘を行かせるっていうのは、考えられなかったみたい・・・

この5名っていうのは、父親が旧幕府派で、すでに海外に行ってたりと
海外事情に明るかった家庭で育った人達

そんな理由もあってこの5名の女子留学生が行くことに
最年少8才の津田梅子がいる 

津田塾大学の創始者の人だね。

使節団の経緯

大熊重信からなる大熊使節団が行くはずだった
元々の使節団の構想はフルベッキ(オランダ系アメリカ人)が提案したもの
この人は宣教師として長崎にきたが当時、キリスト教は禁止されていた

そのため、英語教えていた。そこで大熊重信も生徒として習っていた
フルベッキは英語だけでなく、工業技術の実務経験もあり、知識が豊富で見識がある

そんな彼は、明治政府に声をかけられ政治顧問的な役割をしていた

そこで、フルベッキは西欧の発展した文明を自分たちの目で直接体験し
学ぶことを大熊重信に提案
これで大熊使節団として海外へ派遣する予定だったが・・・
詳細は不明なんだけど新政府内の闘争があって岩倉使節団がいくことに、

憶測としては、大熊重信は肥前藩出身で、当時、大きな力を占めていた薩長との勢力争いがあったんじゃないかと・・・

その後、大熊重信は、岩倉使節団が行っている間の政府を統括する一人として活躍。

この間の政府を留守政府
この残った留守政府メンバーも優秀で、
西郷隆盛・板垣退助・江藤新平 達がいた。

例えていうなら

岩倉使節団=EXILE + GENERATIONS 
数年海外ツアー行っちゃう
留守政府:三代目 J Soul Brothers 
日本で活動する

おが太郎
おが太郎

ただエグザイルと兼任している人もいるから・・・

長まろ
長まろ

それは考えなくていいかな!

使節団の目的

①西洋文明の視察、調査 
②幕末に外国と結ばれた不平等条約の改正のための予備交渉

いきなり条約改正のお願いしても当時の国力の差から難しいのはわかっていたから、
さぐりを入れたかった

当時、日本にとって不利とされる不平等条約をアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国と結んでいた

①治外法権

②関税自主権がない 

①治外法権とは

「外国人が日本で罪を犯した場合であっても、
日本の法律で裁けない」
これによって、外国人の犯罪に対し、日本側がなにもできない現状があった

②関税自主権がない
これは主に輸入で、外国から入ってくる品に対して、自国で税率をかける権利
例えば外国から安価で大量の商品が入ってきたら自国の産業がなりたたない
だから税率をかけてバランスをとりたい

この時、日本は後進国だから、これを先進国の欧米との貿易においては

関税自主権によって自国の産業を守ることができる

アメリカも、当初、産業が進んでいたイギリスに対して自国で税率をかけて自国の産業を守る防衛関税を行っていた

これらの不平等条約をなくしたいわけ。

こんな風に、使節団の目的を、話したんだけど、

根本にあるのは
欧米列強の植民地政策の餌食にならないためにはどうしたらいいのか

岩倉使節団 横浜港出発

よく晴れた日でした 空気も澄み切っていた

蒸気船「アメリカ」号で横浜港を出発し、
サンフランシスコに向った

ここで事件が・・・
五人の女子留学生がいて船では袴をきていた
トイレでようをたすのに袴をもってあげる人が必要のため
二人一組でトイレにいっていた

そこに現れた

長野桂次郎(ながのけいじろう)「トミー」幼名の為八
がこの女子留学生に「たわむれた」・・・

って記述が残っている

長野桂次郎は旧幕臣側で書記官として参加
旧幕臣側に海外経験が豊富な人達が多くいたため、通訳や書記官として
参加していた経緯があった

トミーは陽気で以前アメリカに言ってた際に、アイドル並みの人気があって、
数千通のファンレターをもらっていた
彼のことを歌った「トミー・ポルカ(Tommy Polka)」っていう曲がヒット
誰とでもうまくコミュニケーションができた彼だが・・・

この女子留学生とはうまくいかなかった・・・

女子留学生の一人は船内の部屋にもどりなきだした

そして、副使の大久保利通に訴え、大久保が伊藤博文に相談して模擬裁判をやることに
欧米はこうしたことをよくやるという具合に、
裁判官役は伊東、弁護士役、書記官役など割り当てて模擬裁判をした

結局、厳重注意のような形で終わった

以上、岩倉使節団出発までの流れでした。

日本は、なぜ軍国主義に走ったのか?なぜ近代において他国と戦争を行ってきたのか?
その根本的原因はこの時にあると思っていて、
そもそも欧米が対等な関係を築こうとしていれば、また違ったあり方があったんじゃないのかなって・・・

Part2はこちら↓

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