概要
1939年5月から9月にかけて満州国とモンゴルの間の国境線を巡る争い
当時満州とモンゴルでは国境線が曖昧な地域が多かった
その国境は国際法に基づいて決められたわけではない
遊牧民同士の慣習などに配慮した形でうやむやになっていた
・満州・日本→ハルハ川を境界
・モンゴル・ソ連→ハルハ川から20km程度満州寄りのところを境界
ノモンハンとは地名のことです。
当時の状況
1931年の満州事変を発端に、満州国が建国
実体は日本の傀儡国家であった
政府はあったが、実質的に日本が支配していた
軍隊も形式上の満州軍はいたが、実権は日本軍(関東軍)が握っていた
満州軍=ほぼ日本軍のイメージで良いと思います
1937年 日中戦争に突入
当初は早期講和に持ち込んで早く戦争を終わらせるつもりであった
しかし、想定外の中国軍の粘りに苦戦し、膠着状態となってしまう
モンゴルは1921年にソ連の支援で中華民国から独立
ソ連の影響により社会主義政策をとっていた
→世界で2番目の社会主義国家
実質的にソ連の支配国「ソ連に従属する衛星国家」と呼ばれる
事実上、日本とソ連が広大な国境線を挟んで対峙する状況となった
ソ連は満州国を国家承認しておらず
日本はモンゴルの独立を承認していなかった
そのため国境については双方軽んじている傾向はあったと思います。
ノモンハン事件の経緯
日本陸軍中央は不拡大方針であった
しかし、辻正信参謀が起草した『満ソ国境紛争処理要綱』において以下のように決まる
「国境線明確ならざる地域に於ては、防衛司令官に於て自主的に国境線を認定」
「万一衝突せば、兵力の多寡、国境の如何にかかわらず必勝を期す」
→日本側の主張する国境線をモンゴル(ソ連)が越境したら軍事力を持って排除する方針
ノモンハン事件の発端はモンゴル軍が侵入、満州軍が侵入どちらも説がある
国境があいまいであるから水掛け論になってしまいますね・・・
元々小競り合いは頻繁に起きていたが、日本軍が侵入してきたモンゴル軍を撃退
→その報復でソ連軍が本気モードで進軍、日本軍を壊滅
→日本軍も本気モードで応戦
日本は当初歩兵と機関銃くらいしかなかった
そこに本気モードのソ連は戦車部隊を投入し日本軍を殲滅する
関東軍自体も紛争拡大は望んでいなかった
日本・満州の提示している国境線の維持が目的であった
しかし現場レベルの指揮官が出撃を強行したことで拡大していくことになる
戦闘について
航空戦→日本が圧勝
陸上戦→初めは日本が優勢、しかし徐々に劣勢となる
航空戦が優勢だった理由
・日本は少数精鋭のエリートパイロットを投入
・ソ連は新兵も多かった
陸戦は、、、
歩兵が中心の日本に対し、ソ連は戦車隊で編成
戦闘の初めは火炎瓶攻撃が有効であったが、次第に対策を取られ通じなくなる
火炎瓶なんかが戦車に通用したんだね。
徐々に物量と人海戦術を頼るソ連に圧されていくことになる
日本は日中戦争を継続している中、大幅な戦力を対ソ連に割けない状況
ソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約の締結
これにより東側(日本側)に戦力を集中できることで日本軍は焦った
戦闘の結果
一般的には日本の大敗戦として知られる戦いですが、、、損害を比べると。
日本:戦死約8000名、戦傷約8600名
ソ連:戦死約1万名、戦傷約1万5千名
単純な損害数で言えばソ連の方が大きいが
国境線は結局のところモンゴル側の主張通りとなった
→このことから日本の敗北と見るのが妥当
ノモンハンの敗北を受けて日本は南進論に突き進み
アメリカと対決することになる
歴史のIFになってしまいますが、ここでソ連と日ソ中立条約を締結していなかったらとか、
ノモンハンの正確な損害がわかっていたら歴史は大きく変わったかもしれませんね。
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