音楽には二種類しかない。よい音楽とそれ以外だ。
デューク・エリントン(米国のジャズオーケストラ / 1899~1974)
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日本の歴史でタブー
慰安婦問題が大きく取り上げられるけど
なぜ日本でそもそも慰安婦が行われるにいたった流れというか
日本の性売買の歴史をまずは知らなきゃだなと思います。
今回は近代を中心に全体的な大枠を話したいと思います。
江戸時代の性売買概要
性売買をしている女性の種類 ◆遊女 主に江戸時代に性サービスをしていた女性。遊郭など幕府が公認した場所にいた女性。 歌や舞を見せたりもする。 ◆飯盛女or飯売女 日本の宿場で働いて性サービスをする女性。または中居さんの事をさす場合もあるので一概には言えない。幕府黙認であった。宿屋1件につき2名くらいいたらしい。 ◆隠売女 江戸時代に非公認の性サービスをする女性 公に認められていない場所で売春を行う。見つかったら処罰されてしまう。
江戸時代初期に幕府公認で有名な三大遊郭ができる
江戸の吉原、大阪の新町、京都の島原
遊女は生活苦や借金などがあり身売りをされたため自由意志ではない
しかも、壁や堀で囲まれた場所で逃げ出せないようして、客見せのため格子の前に並べられ
ひたすら客の相手をし続けなければならない
華やかとはほど遠いのが現実でした。
ペリー来航をきっかけに鎖国がとかれ、欧米など世界との関わりが盛んになっていくことで、制売買の歴史も動くことになります。
欧米は奴隷制廃止の傾向が強くなっていた
性売買によって性病が蔓延したため性病防止策の取り組みを強化していた
フランスが日本の遊女に強制的に性病検査したことから始まる
幕末に長崎にきたロシア艦隊の水平が丸山遊郭を利用し、梅毒にかかってしまう
1860年 ロシアが長崎のイナサに検梅所を要求し設立となる
丸山遊郭の遊女は半数以上が梅毒
欧米の圧力のもと日本各地で検梅所ができた
日本は明治維新があり国際社会で欧米と対等な立場になっていくには、
幕藩体制の時にあった身分制をなくし、
性売買に関しても国が主導で管理・統制をしていかなればならない状況であった
1872年 芸娼妓解放令 主に娼妓、芸妓において行われた人身売買を禁止 ①人身売買する際に発生する身代金は不正であり、それによる訴訟にも応じない ②性サービスをする女性が自ら貸座敷を借りて営業するようにした。 そこで働く女性を娼妓という。政府公認であり、遊女とは違う建前となる。 人身売買を禁止したが、性売買自体を禁止はしていない 結果的に人身売買は継続して見られることとなった。 貸座敷業者によって娼妓が特定の貸座敷に拘束されて自由がない状態でもあった。 1876年 性売買の取り締まりについて政府発表を行う 性売買の取締り権限が警察になった。 貸座敷、娼妓の営業申請は警視庁に出すこととなる。 ⇒週1回検梅を受ける 貸座敷業者も娼妓も取り分の数パーセントは政府に納金 結局、遊郭の区域の外に移住してはならないなど拘束は変わらなかった。
性売買の繁栄
北海道では1871年にすすきの遊郭が設置
それまで北海道はアイヌ文化が栄えていて未開の地が多くあった
北海道を開拓するために多くの男性が移住し、彼らの娯楽場として栄えることとなった
1873年までに日本の各地に鎮台がおかれる
※鎮台は日本各地におかれた軍隊
中央集権国家になって、日本は軍備を増強していった
鎮台の周りにも性サービスをする場所が増えていく
朝鮮でも日本の影響が強くなって段々と性売買が公然となっていきます
それまで朝鮮王朝は表向きは性売買を禁止、
影では妓生(キーセン)といわれる人達など性売買は存在した
日本の居留地で貸座敷をつくり性売買を公然と行われるようになった
性売買を行う女性は主に日本からきた人達が多かった
1896年 ロンドンデイリーニュースの記者の質問に伊藤博文首相が以下のように回答
「彼等(娼妓)を以て単に不徳と呼ぶなかれ。あわれむべし彼等の中には貧苦に迫る両親をたすけん為、
身を売り孝を為さんと云ふ高尚なる目的をいだけるものもある。
故に苦行中善行を積むものはふたたび社会に出ることが出来るのである。」
性サービスをする人を悪ととらえるのでなく、彼女達は両親を助けるためだったりと
苦しみながらも道徳にかなった働きをしているんだとの見解を示します
1900年 訓令第17号 娼妓は18歳以上で警察に名簿登録が必要となる 外出には警察の許可が必要 娼妓名簿の削除は本人が警察に口頭または書面提出で可能 ⇒自由意志で本人が希望すればやめることができる ただ、貸座敷業者に暴力にあうケースや、 借金している場合はそのお金を払わなければいけない裁判例が出ている この訓令も影響して娼妓をやめる人達も増え日本国内の娼妓の数は 1899年 約5万2千人 1902年 約3万8千人 と減少傾向にあったが、日清戦争後の不景気も影響し再び増加傾向となる 1904年 4万2千人
何で増えたの?
日本が戦争に勝っていく中で軍を増強して、それに伴って遊郭を設置していったんだよね。
台湾公娼制 日清戦争の勝利によって台湾が植民地となる 台湾の守備隊のために日本人の性売女性が流入することになり貸座敷と娼妓制を導入 16歳以上の女性が対象となった(日本は18歳以上) ・目的 ①日本軍兵士の娯楽 ②性病蔓延防止 ③日本からの移民定着 ④アヘン中毒予防(アヘン中毒の台湾人性売女性との接触を断つため) 日本人女性の娼妓が大半を占めていた(台湾人は少数) 性的行為だけを目的に安く短時間で済ませる軍用の性的施設が作られる これは貸座敷制とは異なり、飲食や歌や舞はともわない。 これが、日本軍慰安婦制度の原型と言われている。
人身売買の廃止の流れに
1904年 ヨーロッパ12カ国参加の国際会議で「白人奴隷取引禁止に関する国際協定」 性売買のために取引される白人女性防止のための取り決め
日本もそういった人身売買の国際的流れに対応することになります
1907年には国外移送を目的とした人身売買は2年以上の懲役となるのですが、これは国外だけなんですね。朝鮮や台湾は国内とされ容認されてました。
日本は第一次世界大戦後に国際連盟の常任理事国になった
女性の人身売買問題が避けて通れなくなる
1921年 女性児童の取引禁止に関する国際諸条約
性売を禁止する年齢を満20歳から21歳に引き上げる
日本の植民地は適用除外
日本はこの年齢に関して留保したが、1927年に撤回し18歳以上が対象となる
これにより、朝鮮、台湾の慰安婦が多く集められることにもなる
1925年 帝国議会にて公娼制を続けるか廃止するかの議論が活発
1930年代に入り、買春する男性の好みが遊郭からカフェー、
ダンスホールを介しての買春に変化
古風な遊郭より新しいものが好まれるようになる
カフェー?喫茶店みたいな?
カフェじゃなくてカフェーなんだよね。
今で言うキャバクラに近いと思う。「特殊喫茶」とも呼ばれます。
男性客に女性がすり寄っていく感じ。
戦時下における慰安婦
廃娼の実施が進んでいた最中、第二次世界大戦(日中戦争)が勃発
1938年 日本国内の娼妓、芸妓、酌婦の数が大きく減る
国家総力戦で軍需産業に力を入れるため制限をかけた
ただ「慰安施設」は許可された
芸妓の中には慰安施設に転用され、芸をせずに性行為のみとなっていった
軍需工場で働く男性労働者のため、軍関係者に対する性サービスは廃止の方向にはならず、むしろ増えていくことになります
中国や東南アジアにも多く慰安施設がつくられた。
日本人あるいは朝鮮人、台湾人、中国人などが日本軍の相手をしたとされる
(数万~数十万いたとされるが、数字にバラツキがありすぎて詳細は不明)
従軍慰安婦問題 自分の意志とは関係なく日本が拉致、誘拐をしたのかどうか
2021年9月文部科学省は教科書会社5社から「従軍慰安婦」と「強制連行」という
用語の削除や変更の訂正申請があり承認した
ただ一つ言えるのは弱い立場の女性が過酷な状況にいたのは確かだと思います
戦後の性売買
1946年 RAA(特殊慰安施設協)廃止
性病の蔓延を危惧したGHQの指令により性売買廃止
⇒日本が廃止の方向へ進むこととなる
1947年 職業安定法が確立
何人も有料の職業紹介事業を行なってはならない
これにより性売買の紹介業はなくなった
ただし今まであった遊郭地帯や売春街で女性が街頭に立って任意で行う売春などは
黙認されました
1958年 売春防止法
売春そのものを処罰するのではなく、売春を助長する行為を禁止
街頭での売春婦の立ちんぼなどはダメ
また、赤線地帯や青線地帯はなくなる
売春が成立するのはあくまで性行為(本番行為)があったかどうかです
でもお客さんと従業員が自由恋愛に基づく分にはOKなんだもんね(笑)
ここまで歴史を見てきたけど、結局のところ弱い存在であった女性の人権が軽いものとして扱われていたってことだと思います。