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琉球王国について
1429年 尚 巴志が現在の沖縄本土を統一して首里城を拠点に琉球王国
第一尚氏時代は64年で滅ぶ
⇒身内や側近同志の争いが絶えなかった
1469年 第二尚氏時代(1879年の沖縄県設置まで)410年間続く
元貿易大臣の金丸が王になり尚円と名乗った
3代目 尚真王
琉球では中央集権国家⇒日本本土より340年程早い
この時に宮古、八重山諸島は琉球に支配された
武器の多くは国家が管理することにした
必要最低限の「軽武装国家」でした
琉球王国は主に貿易で繁栄する(中継ぎ貿易)
⇒海産物、硫黄、黒砂糖などの特産品があり東南アジアからインド洋にかけて広大な貿易圏
明とは朝貢貿易を行っていた
朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の品を渡す
①明が格上、それに従属しているという構図を作る
②周辺国と敵対関係をつくると多額の軍事費がかかるよりも良好な関係を築いた方が安上がり
経済的に優れた安全保障システムなんですね
琉球王国の征服
1609年 約3000名の兵を率いて薩摩藩が侵攻
⇒5日間で首里城占領される
当時の琉球王国の王である尚寧王は江戸へ連行され3年間軟禁状態となる
琉球の反乱を防ぐために武器の携帯を禁止
⇒実質薩摩藩の支配下におかれる
しかし明朝とは引き続き朝貢貿易を継続させた
明から清に王朝が変わっても朝貢貿易は続きます
日本(薩摩藩)と中国どちらからも支配されているような感じになってるんだね
琉球処分
1853年にアメリのペリーが黒船で那覇に来航
翌1854年 那覇開港
アメリカ、オランダ、イギリスと琉球は修好条約を結ぶ
明治時代に入って各国が各国が国境を明確化していく流れになります。
琉球も例外なく日中両属はダメって雰囲気になってきます。
1871年 廃藩置県
薩摩藩が消滅して鹿児島県となり琉球は一時的に鹿児島県の管轄となる
1871年11月 宮古島島民遭難事件
首里に年貢を納めて帰途についた宮古船が台風で遭難し69人が台湾の海岸に漂着した
うち54名が台湾原住民によって殺害された事件
1872年 琉球王国は鹿児島県管轄から外務省管轄となる
⇒琉球藩を設置し、国王を藩主と同格にした
1874年5月 台湾出兵
3600名率いて近代日本初の海外出兵を行う
上陸後2週間程度で殺害事件があった現場周辺を制圧する
清朝にとって台湾は統治範囲外の人々であるから関係がない
イギリスが仲介に入り、日本が台湾から引き上げる代わりに
清国は賠償金は支払わないが、見舞金を支払う
ジワリジワリと琉球王国を日本の領土と認めさせる形になってきました
1874年7月 外務省管轄から内務省管轄となる
⇒内務省となり内部の問題と安易に示す
①清国との冊封・朝貢関係を廃止して断絶すること、 ②明治の年号を使用し、琉球藩王自ら上京すること
琉球は従わず日清両属的な状態を従来通り維持したいと嘆願します
1879年 琉球処分官 松田道之が警官・兵などあわせて約600人で
武力的威圧のもと琉球藩の廃止および沖縄県の設置
藩王の尚泰は華族の身分を与えられ東京に居住を命じられる
これにより500年もの長きにわたる琉球王国は崩壊
⇒このことを「琉球処分」と言う
日清戦争を経て日本領が確定
琉球指導層は清国に密航し救援を懇願
清国も日本政府の一方的なやり方に抗議
外交交渉の過程で清国へ分島・増約案が提案された
琉球を二分し、宮古と八重山を清(中国)に与えるかわりに沖縄本島は日本領とする
調印の最終段階まできたが、清国が調印を拒否
その後日清戦争で清が負けたことによりもう琉球の問題を清が言えなくなります
結局のところ力あるものが勝ってしまう・・・その典型例なのかもしれませんね