「薩長同盟」幕末の転換期

出来事
おが太郎
おが太郎

議論に勝っても人の生き方は変えられぬ
by坂本龍馬
自分の意見で相手を打ち負かしても、人ってそう簡単に変わらないよね

音声はこちら↓↓↓

薩長同盟とは

1866年(慶応2年) 京都で薩摩藩長州藩が結ばれたとされる盟約

当時の資料では薩長同盟とは呼ばれてない

薩長同盟の最大の問題点は薩摩側の史料がない
長州側の史料のみ存在し、
木戸孝允が薩長同盟の六箇条を後にまとめた

おが太郎
おが太郎

口約束なんですね。薩摩が認め誓約した証明はないみたいです。

■薩長同盟の2つの意見
①長州が戦争を起こした時に薩摩が長州側に参加する軍事同盟
②軍事同盟ではなく長州藩が朝廷の敵とされた場合、薩摩藩がその取り消しを働きかける

おが太郎
おが太郎

最近では②の説が有力のようです

薩摩と長州を中心に幕府と戦い明治政府ができた
明治からの日本は薩長中心に成立した事実は拭えない

おが太郎
おが太郎

明治の内閣総理大臣って薩摩、長州の出身者ばかりだから、、、
それは、しばらくずっと続きます。なんなら今でもその影響はあるからね。

例えば最近だと、安倍晋三は東京都出身になってるけど、もともとは長州、現在の山口県にルーツがあって、祖父は山口県出身の岸信介。
安倍晋三も衆議院選挙は山口県から出馬していたんですね。

時代背景

おが太郎
おが太郎

1974年新日本プロレスとしてデビューし、サソリ固めで勝利…

長まろ
長まろ

それ長州力でしょ(笑)

おが太郎
おが太郎

長州違いでした(笑)

【前提として】
毛利(長州)、島津(薩摩)は関ヶ原の戦いてば西軍側で負けたことで
徳川方に従った大名、いわゆる外様大名
幕府政治の中枢に入りにくい立場であった

長州藩

長州には尊王攘夷思想を持った志士が多くいた

1863年 八月十八日の政変
過激な尊王攘夷思想をもった長州藩やそれに同調していた公家を京都から追放

1864年 池田屋事件
尊王攘夷思想をもった志士たち(長州が多い)が新選組により弾圧された

1864年 禁門の変
長州が報復で京都に入り京都御所で幕府軍(会津、桑名、薩摩)と対立し敗れる
長州藩は朝廷の敵となる

第一次長州征伐
幕府軍が長州に兵を送った
幕府軍の参謀を務めた西郷隆盛
長州藩と戦わず交渉し兵を解散させている
内戦は国力の低下を招くだけ

★禁門の変で、長州は薩摩に恨みがある
第一次長州征伐の時の西郷の動きがもしかしたら長州のことを思ってくれてる
会津藩とは少し違う見方をされてたの

下関戦争
長州藩が外国船に対して砲撃し、下関海峡を通れなくした
イギリス、アメリカ、フランス、オランダの四国連合艦隊から報復を受ける

長州は朝廷、幕府、外国からも敵とされた孤立状態

長州では、孤立状態で、それまで過激な尊王攘夷思想をもった急進派が力を失い、
幕府に対して抵抗せずに従うという恭順派が長州の実権をにぎろうとしていた
その時、高杉晋作が兵を立ち上げて劣勢の状況から急進派が勝利し勢いを取り戻す

長まろ
長まろ

まさに崖っぷち状態からの挽回だね

薩摩藩

薩英戦争(1863年)
島津久光の大名行列を横切ったイギリス人を切りつけた生麦事件が発端
イギリス軍艦が鹿児島に砲撃し戦争となる
外国の脅威を身をもって体験することとなる

薩摩の島津久光は、参与会議のメンバーだった
朝廷の任命により有力な大名が京都に集まり会議する
これまで幕府の意思決定から完全に排除されていたが
外様大名である薩摩の考えが意思決定に反映される可能性が出てきた

しかし一橋慶喜と意見が合わず、数か月で参与会議は崩壊
政治の中枢に入ることはできなかった

おが太郎
おが太郎

今後幕府の長州征伐が成功し長州が完全に徳川に降参してしまったら
幕府に対抗するすべがなくなってしまい薩摩も立場が危ういよね。

長まろ
長まろ

薩摩も長州も惹かれるべくして惹かれたって感じだね!

薩長同盟を結ぶまで

幕府に対抗するために、長州は武器が必要だった
長州は幕府を通さずにイギリスのグラバーから武器を購入しようとしたが、
グラバーは幕府から長州に直接武器を売らないようにと言われており
薩摩名義で武器を買う必要があった

薩摩の家老である小松帯刀から薩摩名義で武器購入の許可をもらうことできた

おが太郎
おが太郎

薩摩藩主、島津久光のもっとも信頼を得ている側近らしいです。
小松帯刀(たてわき)って名前いいよね!

長まろ
長まろ

音の響きがってことかな?(笑)

武器買い付けの際に坂本竜馬らが結成した亀山社中の活躍があった

亀山社中とは
坂本龍馬やその同志達によって結成した日本最初の商社
銃などの武器をイギリスのグラバー商会と取引した

薩摩藩の船で武器を運ぶ
薩摩名義で軍艦ユニオン号を購入している

おが太郎
おが太郎

薩長の歩み寄りが見られますね

1866年(慶応2年) 薩長同盟が結ばれる
京都の小松帯刀邸で結ばれたとされる
薩摩の西郷隆盛と長州の木戸孝允
土佐藩を脱藩した坂本龍馬が仲介人として関わる
薩長同盟は秘密裏に口頭での約束とされる
木戸孝允が後に、薩長同盟の盟約6箇条をまとめ
坂本龍馬にその証人として裏側に署名してもらったものが残っている

おが太郎
おが太郎

薩摩の証明はないんですね。この背景を感じながら今から話す6箇条を聞くと見えてくるものがあるかと思います!

①長州と幕府軍との間で戦いとなった時には、
薩摩藩はすぐに2千ほどの兵を京都に出して
既存の京都の兵と合わせて大阪にも千人ほど出兵する

おが太郎
おが太郎

京都、大阪の両地域を固めるということです。
軍事同盟といわれていた要因です。

②長州藩が有利の戦況となったら薩摩が朝廷と交渉し戦争終結のために力を尽くす

③戦況が不利となっても長州は半年や1年では降参しない
その間に薩摩が朝廷と交渉して戦争を終結させるよう力を尽くす

④戦争とならなくても薩摩が朝廷と交渉して朝廷の命令で長州の冤罪を許すよう力を尽くす

⑤京都の一橋家・会津・桑名が朝廷をかかえこみ薩摩の妨害にでるようなら
最終的には決戦する覚悟で力を尽くす

⑥長州藩の名誉回復がなされたら、薩長両藩は日本を立て直すために共に力を尽くす

寺田屋事件

1866年 寺田屋事件
坂本龍馬と長州藩の三吉慎蔵が寺田屋にいたところ
伏見奉行所の配下100人に襲われた

坂本龍馬は両手を斬られたがピストルで応戦し一人を殺害
相手がひるんだところ宿の裏手から逃げた
 
その間三吉が薩摩藩邸に助けを求めた
伏見の薩摩邸に収容された坂本龍馬は手傷の治療を受けることとなる

幕府側は薩摩と戦争になることを憂慮し手が出せなかった

おが太郎
おが太郎

寺田屋で伏見奉行所によって文書そのものは見つかっていないが、坂本龍馬の文書を押収したという記録が見つかったんですね。(2017年発見)

何が書かれていたのかは不明ですが・・・もしこれに薩長同盟の件が書かれていたら・・・

薩摩は、完全に幕府と対立することになります。
薩長同盟が口約束で行われているため証拠がないから
状況によって幕府側につくこともできるし、長州側につくこともできるんだけど、

この寺田屋事件によって、長州と共に幕府を倒す道を選ばざるをえなくなったのでは・・・?

まとめ

薩長同盟で思う事

おが太郎
おが太郎

色々な解釈がされていて、時代によってトレンドがある。
歴史って過去には確実に存在したはずだよね。
後世に残そうとしたときにその書く人が現代の感覚で解釈することで、
微妙に変化していくことってありえるよねって思いました!

歴史の解釈って必ずしも真実に行きつくわけではない。
この解釈なら納得感あるよね、みたいな現代の感覚で考えてしまうんだなって思いました。

長まろ
長まろ

薩摩も長州も共に外様大名で江戸時代は力がありながらも冷遇されていた側ではあったわけで、
その2つの藩が協力して幕府を倒すってのはむしろ自然な流れなのかもしれないね。

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