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国亡びば与に亡びむ、此れ男子の心なり
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時代背景
戊辰戦争・・・幕末、幕府軍と討幕派軍との大規模な戦いが起こる
1868年(慶応4年)鳥羽伏見の戦いが始まる
幕府軍約1万5千に対して、討幕派は約5千人
京都の治安維持をしていた会津藩もこの戦いに兵力約1千人を投入
人数では3倍勝っていたにも関わらず幕府軍は敗北
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3倍もあったのに何で??
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理由の1つに、幕府軍の装備、戦術が旧式のものだったことがあげられます!
●旧来の戦術
歩兵部隊である足軽が最前線にいて、
それぞれ、鉄砲、弓、槍の隊が横に陣形を作る
そして、同じ隊形の敵と戦う
どちらか一方の隊形が崩れたなら足軽の背後から馬にのった騎馬兵が出てくる
特徴は足軽たちが勝手に横の隊列を崩すことは許されない
旧来の鉄砲は命中率が悪くなかなか敵に当たらない
これを補うために密集して打つことで命中率を上げていた
反面、密集されているところを攻撃されると一度に多くの犠牲が出てしまう
それに対して討幕派は、最新式の銃や大砲を使った
精度が高いので今までの戦い方のように密集する必要がない
そして、西洋から取り入れた散兵戦術で戦う
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散兵戦術って何??
これは兵士が密集せずに個々に散らばって相手を攻撃する
西洋の戦術をいち早く取り入れた討幕派が有利に戦いを進めることができた
この鳥羽伏見の戦いの敗戦をきっかけに、
会津藩でも軍制改革に取り組みフランス式の戦術を取り入れた
ただ、会津は京都守護職の警備活動もあって財政が逼迫していた
そのため、兵器の調達が十分にできなかった
会津藩は討幕派に対して抵抗しない意志を伝え、嘆願書まで出している
ただそれが認められることはなく、会津に攻めてくる討幕派と会津藩との会津戦争が始まる
白虎隊とは
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白虎隊の名前の由来は、古代中国で東西南北の方角を守る神とされた
東の青龍 、西の白虎 、南の朱雀 、北の玄武
この西の神「白虎」からきています。
中国では虎は百獣の王と伝えられ、虎が500年生き抜くと霊力を得て
白い虎、白虎になるとされている。
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幽遊白書にも出てきましたね(笑)
会津ではこの東西南北の方角を守る神から付けられた4つの隊が構成された
・玄武隊 50歳以上
・青龍隊 36〜49歳
・朱雀隊 18〜35歳 主力部隊
・白虎隊 16.17歳
白虎隊は始め15歳からとしていたが、体格、体力などから16歳からとなった
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●当時の子供
江戸時代は肉を食べる習慣がなく、動物性タンパク質といえば川魚か干物の時代
そのため15歳だと140cmほどの子が多く、銃の長さと変わらない。
これ実は弥生時代より身長が小さくなってるらしいね。
いかに食生活が影響してくるか・・・
だから、白虎隊士は見た目では今の同年齢よりも幼く見えます。
白虎隊の中でもさらに細分化されている
隊士たちの身分によって士中、寄合組、足軽の三つに分けられる
さらにそれぞれが1番隊と2番隊に分かれる
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で、よく白虎隊の悲劇で取り上げられるのは士中2番隊の一部です。
全部で37名いて(諸説あり)、この中の16名が白虎隊の悲劇で有名な16名です。
士中について
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これは、じゃがいもとか、人参、スイートコーンで構成されているものではない
武士の士に中心の中という漢字で「士中」と書く
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それシチューね(笑)
士中は上級武士の家柄で構成されている
藩主、松平容保にも直接拝謁することができ、
通行の際には庶民や身分の低い武士が土下座をする身分の高い家柄
彼らは幼い時から徹底的な教育が行われている
会津藩の上級武士の家庭はおよそ800世帯あり、
これをさらに10名の小グループに分けて、什と呼ばれる組織を作るのが特徴
什には、6~9歳のグループで構成される「遊びの什」と
10歳になった会津藩士の子が日新館で学ぶ「学びの什」の2種類がある
幼い頃から集団生活の中で武士としての自覚と責任をしっかりと教え込まれる
例えば、出入りは年長者より先に行く事は許されなかったり、
2歳以上年が離れると「様」付けで呼ばなければならない
日新館 江戸時代を通じて最高の教育水準を持っていたとされる学校 構内には日本最初のプールと言われる水練場があり、 剣術、砲術、馬術、中国古典、さらには天文学など一流の先生から学ぶことができる施設 また定められた年齢までに所定の過程を終了できないと罰金を徴収するなどあった
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こんな風に、小さい頃から徹底して教育された白虎隊の士中は
会津戦争でどうなったのか?
白虎隊出陣
最初は越後と会津との境界攻めてきた新政府軍と戦いが起こる
兵力、銃や大砲などの兵器の差で会津側は敗走する
その後、母成峠で敗れ松平容保は鶴ヶ城から滝沢村へ出陣する
この護衛として白虎隊の士中2番隊も出陣する
猪苗代湖西北端にある十六橋から新政府軍が侵入してきた
その先の戸ノ口原の戦いにて大規模な戦闘となる
会津側約700名に対し、新政府軍は約3千名くらい
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ここでも圧倒的な人数、武器性能差で会津側は退却をします
この戦いには、白虎隊士中2番隊も参加していて
刀は折れ、弾は尽き、劣勢の中後退する
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ここで仲間の隊士達はバラバラになりながら敗走していきます
そして白虎隊士中2番隊の一部は
白糸滝と呼ばれる場所にたどり着く
そこで敵が上から鉄砲で攻撃してきたため
そこにあった洞窟に入るもの、丘に登るものとに分かれた
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これがこの後の生と死の分かれ道となります
丘に登った人たちは退却した別の隊と合流し、鶴ヶ城へ入城する
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丘を登った人は助かったんだね!
・・・てことは洞窟に入った隊は!?
白虎隊の悲劇
隊が入った洞窟は弁天洞窟と呼ばれ
鶴ヶ城の城下町側に送っている用水が流れていて、
その中を冷たい水につかりながら、通過した
すると飯盛山の中腹に出る
そこで主君がいるであろう鶴ヶ城が炎に包まれているのを目撃する
加えて飯盛山から敵兵が続々と城を目指していく姿が見えた
この光景を見た隊士達は愕然とする。
そして16名は自刃の道を選ぶ
刀で腹を切るもの、喉を突くもの、死にきれないものは仲間に介錯してもらう
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これが白虎隊の悲劇でよく知られているものです
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実際お城は燃えてなかったのに、何で燃えていると勘違いしてしまったんだろうね?
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これ自体、諸説あるんだけど、
隊士たちがいた飯盛山から鶴ヶ城は、約2800メートル程の距離で
飯盛山から見たときに鶴ヶ城手前の城下町、三の丸、と裏側に位置する日新館、などが燃えていたんだよね。
これは飯盛山からみると鶴ヶ城の天守閣自体が燃えているかに錯覚する可能性があるとは言われてます。
しかもこの火災は会津側が敵が周辺に潜伏できないように、
自ら火を放って火災を起こしていたとも言われていて、
もしそれを本当に勘違いして自刃してしまっていたとしたら悲劇すぎるよね。
鶴ヶ城が燃えていると判断したからではなくて、どちらにしても圧倒的な劣勢は変わらない それなら敵に捕まり殺されるより、武士としての生き様として 潔く自刃することを選んだという見方もある
切腹教育 自刃は口では簡単に言えるが普通の人がそうそうできるものではない。 白虎隊士たちは幼いときから家庭で死ぬ心構え、自刃の仕方など教わる
飯沼貞吉
自刃した白虎隊の中で実は一人だけ奇跡的に生き残った人物がいた
それが、飯沼貞吉という人物
彼は年齢が15歳であり、16歳からしか白虎隊には入れないはずが、
身長が高かったことから年を誤魔化して入ることができた
彼は自刃する時に短刀で喉を突いた
しばらくして、この場所にハツと言う女性が偶然通りかかる
彼女は鉄砲を持って出掛けたまま戻らない16歳の息子を探しに飯盛山へ
すると、集団で倒れている白虎隊をみつける
ただ既に息絶えていて、唯一飯沼貞吉だけ身体がまだ温かく生きていた
彼は喉に刺さっていた刀が比較的浅かったために生きていた
この貞吉を引き起こすと、喉に刺さっていた短刀が抜け落ち血が流れ落ちてきた
それを必死に止血して看病した
彼女はまた彼が死を選ばないように
「死は易く生は難し」と毅然とした態度で言う
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その後医者に診てもらい、彼は一命を取り留めたんですね
結果、飯沼貞吉が生き延びた事で後世に、白虎隊の詳細を伝えることができた
会津戦争の結末
鶴ヶ城周辺に新政府軍が予想以上に早く大軍で押し寄せてきた
会津の兵はほとんど周辺の藩境に展開して城の守りは手薄であった
そこで籠城して戦うことを決めた
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籠城には2パターンある。
■方籠・・・妻や子どもを安全な場所に避難させて、戦うものだけが籠城する
■諸籠・・・老人、子供、女性も含めて籠城して、運命を共にする
これ、学生リスナーも聴いているから、受験対策として、
方籠と諸籠がごっちゃになってわからないって時に「もろこもっている方が諸籠」って
覚えるのがいいと思う!
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いや、受験で出ないっしょ(笑)
この鶴ヶ城で行われたのは諸籠(ただし各々の判断に任せられた)
①城へ入城する家族
②城とは別の場所へ避難する家族
③自刃を選ぶ家族も多くいた
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籠城して足手まといになったり、敵につかまって辱めを受けないように
自刃を選んだ人も多かったみたいです。
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柴五郎の回でも言ったけど彼の家族もそうだったよね・・・
家老の西郷頼母家では家にに火を放ち一族21人が集団で自刃
中には幼い子や10代の若い子たちもいた
会津藩全体では自刃を選んだ人は約200人くらい
こうして籠城戦を展開したが、
鶴ヶ城を取り囲んだ新政府軍の砲撃は激しくなり
約1ヶ月後に会津側が白旗をあげ会津戦争は終結した
明治4年に白虎隊を供養するために碑が建てられた
この時点では16人の白虎隊の碑
それが明治23年に改修した際、周辺で自刃した白虎隊士3名も追加されて19名となっている
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今でも会津若松市に白虎隊十九士の墓があります
まとめ
なぜ白虎隊士中2番隊の悲劇が有名なのか?
白虎隊の死者は合計約50名ほどいた
①会津戦争終了時の白虎隊の戦死率
士中27%、寄合13%、足軽8%
これは自刃を含む
身分の高い士中が一番命を落としている
最前線で戦い、または自ら命を絶った人たちが多かった
②第二次世界大戦前の軍国教育に利用された
白虎隊の悲劇の物語は脚色されて、本や歌、映画が世の中に出る
大正11年度からは小学校の国史の教科書にも掲載
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そして、多くの若者が戦争に協力し巻き込まれていった。
学徒出陣にしても、満蒙開拓義勇軍にしても、若い人たちが
国のために命を落とすことが行われ続けたこと。
その事が悲劇だなと思いました。