「史上最悪の作戦」とも言われるインパール作戦についてお話します
↓↓↓音声はこちらから
インパール作戦の概要
大東亜戦争の末期、1944年3月~7月にかけて行われた作戦。
終戦間近の出来事だね
当時の日本の状況
当時の日本は様々な国と戦争をしていた。
太平洋ではアメリカ。
中国大陸では中国。
北はソ連(当時は休戦、不可侵条約で不戦状態)
東南アジアではイギリス、フランス、オランダ
中国や東南アジア戦線は持ちこたえていたが、
太平洋ではアメリカに惨敗し、本土へ押し込まれ気味だった。
インパールとは
インパールはインドの地名
場所はミャンマーとインドの国境付近
険しい山が連なる場所
戦車が入っていけない、飛行機も着陸できないような山奥のジャングルで
人が入っていかなければいけない場所だったんだよね
どんな作戦だったか
当時中国では蒋介石が重慶で立て籠もり日本軍と抗戦していた。
それを支援するため英仏は空輸により重慶政府を助けていたため、
日本軍はなかなか攻め落とすことができなかった。
援蒋ルート*を遮断するために、インドからの物資輸送路を遮断する必要がある *重慶に立て籠もる蒋介石を支援するための連合国側からの物資輸送路
この頃になるとヨーロッパ戦線もドイツがソ連に押され気味になっており
イギリスはインド・東南アジア方面に手を回すことができるようになっていた。
インパール作戦の結果
戦争の経過
地形及び環境が悪く、ホーム戦が有利(イギリス・インド側)
真夏の雨季で病気にかかる兵士が続出する
ジャングルを行進してインパールまで向かっていたため、
日本兵は極力軽装備となっており、物資不足に悩まされる
”ジンギスカン作戦” 少しでも荷物を減らすため、家畜に荷物を持たせながら行進し、 途中で食糧にもする一石二鳥作戦のはずが、家畜の逃走や途中の川で運悪く流されてしまい失敗する
補給もままならない日本軍は粘ったものの撤退を決めました・・・
でもここからの方が実は悲惨な結果になります。
え、そうなんだ!
撤退後の悲惨な状況
劣悪な環境で戦い物資不足の中、皆満身創痍で来た道を引き返す日本兵ですが
帰路の途中で餓死して亡くなったり、インドヒョウなどの猛獣に襲われたり、
マラリアなどの伝染病でバタバタと倒れていきます。
未だに日本兵の骨が多数埋まっていることから、そのあたりの路を「白骨街道」と呼ぶ
誰か死にそうな人がいたら死ぬまで待って、その人を食糧にしたって話もあるくらい・・・
うわっ・・・悲惨だね・・・
当初10万の兵力を投入した作戦だったが、 戦死者1万に対して、帰路で亡くなったのが2万、戦病者は6万人と ほぼ無傷で帰れた人はいないという散々な結果となりました。
まとめ
精神論がまかり通っていた当時の日本軍において、典型的な例だと思います。
早く撤退できてればこんなに被害出なかったかもしれないね。
撤退が遅くなったのも司令部側の「意地」であったり、
「面子」を保ちたかった側面もあって、本当に残念な作戦となってしまった印象。
作戦自体は中国大陸における日中戦争を有利に進めるための作戦で理に適っているとは思うが、
最終的な判断が「精神論」的な部分で行われていたことは否めず
当時の司令官の「剣が折れたら石を投げて戦え」という言葉がインパール作戦を象徴しているように思える。
また、当時の司令官は戦後も生き延びるが、謝罪の言葉などは一切なかったという・・・
司令官が悪いと言えば悪いと思うけど、おそらく当時の戦局を考えて、もはや日本が勝つことはできなかったと思う。そんな中で成功する可能性のあまり高くない(けど成功すれば日本軍が優位に立てる)作戦を無理やり実行したこと自体は絶対に間違ってるとまでは言えないと思う。
当時みんな「この状況をどうにかしたい」って気持ちは一緒だったんだろうなと感じました。