■張作霖爆殺事件の概要
昭和3(1928)年6月4日、満州地域を支配していた張作霖が、
中国統一を目指す国民政府の北伐軍との戦いに敗れて満州へ戻るところ
乗っていた列車事爆破され殺害された事件。
「満州某重大事件」とも呼ばれる。
■張作霖について
1875年生まれ
遼東半島の貧しい家に生まれ育ちったこともあり、青年期には馬賊に身を投じていた
馬賊とは字のごとく馬に乗って荒らしまくる盗賊みたいなもんです
1904年日露戦争においてロシア軍側に雇われ日本軍のスパイ活動を行う
しかし日本軍にバレて処刑されるところを田中義一(当時陸軍参謀)に救われる
→日本軍の2重スパイとして利用される
→ロシアの駐屯地に潜入し多くの情報を日本にもたらした
日露戦争後は清国に帰順し、馬賊のリーダーとして約2千の軍の部隊長となった
これを契機に勢力を拡大します
1912年 清が滅び中華民国の成立
→勢力を温存していた張作霖は、袁世凱に従うことにした
1916年 袁世凱が死去
これを好機と見た張作霖は奉天省の支配権を獲得
その後さらに勢力を広げ満州の覇者として君臨することとなる
「満州王」と呼ばれるほどの威勢を放った
→満州で国際商品として流通している大豆に着目、財を築く
■張作霖爆殺事件
日本は満州を支配していた張作霖を支持し、味方に引き入れていた
→満州の権益を確保のため
しかし中国では中華民国の国民政府が台頭し、各地の軍閥政権を倒していく
国民党政府は北伐と呼ばれる北方軍閥との闘いを開始
敗色濃厚となり張作霖は国民政府軍との決戦を断念、満州へ引き上げを決意する
その引き上げの途中で事件が起きた。
この列車に日本軍将校の儀我 誠也が乗車していた
その証言によると・・・
列車は全部で20両、張作霖は8両目に乗車 奉天近郊の立体交差地点を通過中に列車が爆破される 列車は大破、交差していた鉄橋も崩落 儀我は爆発物が頭上から降ってくるので即座に列車から飛び降りる 張作霖は爆破時点ではまだ生きていたが、その後死亡 同乗していた警備や側近18名が死亡
■事件後
張作霖の息子、張学良は爆破を日本軍の仕業と考え、
国民党政府の蒋介石と和解、国民党政府に合流
結果的に満州の軍閥は日本の敵になりました
定説だと事件の首謀者は関東軍の河本大作大佐 今までは利用価値があったが、もう張作霖が使い物にならないと判断。 日本軍独自で満州を占領したいが、軍は天皇の命令がないと動かせない。 張作霖を殺害し、その犯行を国民党政府の仕業と偽装することで、 日本軍と中国軍の対立構造を造り、軍を動かしたい思惑。 そうすれば日本人保護の名目で満州を占領できる・・・
河本大作は事件後、軽い処分で済んでいます。
なお、事件を起こした責任を取らされたわけではなく、警備面の甘さを指摘されての処分です。
田中義一内閣は張作霖爆殺事件のことを昭和天皇にとがめられ、
何も言い返すことはできずに退陣となる
昭和天皇は犯人を厳罰に処すよう指示していました
田中義一はその後まもなく病気でなくなってしまう
昭和天皇はそれを気にして、以後政治に口出しをしないことを心に誓ったと言われる
■事件の真相は闇の中
張作霖を殺害したのは河本大作がやったとされているが
実際のところ誰が何の目的でやったのかは未だに不明
→河本無罪説も根強く残っている
定説通り河本大作(関東軍)の仕業か、日本政府ぐるみなのか。
中国国民党かもしれないし、満州を狙っていたソ連の可能性も否定できません。
なお、張作霖を恨んでるような人はいくらでもいたとか・・・
他の本とかで張作霖爆殺事件は日本軍の仕業って断言されてた気がするよ
「歴史は勝者がつくるもの」
今の第一次世界大戦後からの歴史は日本を悪とするための歴史
全てを真に受けてしまってはいけないのかもしれない・・・
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