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良い鉄は釘にならない。良い人は兵にならない。
今回のテーマである小野田寛郎が親しい中国の友人から言われた言葉です。
音声はこちら↓↓↓
はじめに
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彼は29年間、終戦を知らずにフィリピンのルバング島のジャングルの中過ごしましたが、
それはなぜか?彼の任務の特異性も関係がありました。
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/74fec077ca9edb1bc28559d04eb39f7f.png)
横井さんも有名だよね!
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終戦を知らずジャングルの中で暮らしていた日本兵のイメージってやせ細って、穴の中で隠れて暮らしている気の毒な人って思ってたけど、実際は違ったようです。
生い立ち
1922年 和歌山県で生まれた
中学を卒業して進学をせずに貿易会社「田島洋行」 に就職
すぐに、中国の湖北省漢口へ赴任
仕事では、日本語を使わずに中国語のみで行わなければならなかった
そのため中国語が話せた そのことが彼の運命を分ける
時代背景
日中戦争~太平洋戦争入っていた時期
満20歳になった小野田は、中国で徴兵検査を受けた
九州久留米の第一予備士官学校で訓練を受けるため、日本に帰された
入隊
そこでは、50人の兵を引き連れて敵に切り込みを繰り返す
玉砕戦法の訓練が行われた
中国ができることから、上官から陸軍中野学校への配属が言い渡された
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陸軍のなかには、校名を見ても内容がわからない学校が2つあって
中野学校と習志野学校です。
中野学校は、スパイの養成機関
習志野学校は毒ガス、細菌戦の専門教育
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例えば、スパイ同士の会話は、すべて息を吐き出した後、耳元で話すなどです
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確かにこしょこしょ話みたくなるね!(笑)
候察という屋外での実地教育ではメモが一切禁止
これは敵に捕まった時、証拠を残さないため
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だから小野田はジャングルでの29年間の生活で一切メモを取らずに全て頭の中で記録していたようです。
【大事な教え】
当時、軍隊では精神主義で、生きて捕虜になるくらなら死を選べといった教育や風潮があったが、中野学校では、「死ぬなら捕虜になれ。捕虜になって敵に偽情報を掴ませろ」といった合理的に判断することが求められた。
三か月間の訓練が終わり配属がきまる
任務とは?
彼は、横山師団長の命令で、
「ルバング島へ赴きその島にいる警備隊のゲリラ戦を指導せよ」
という命令を受けた
さらに、
「玉砕は一切まかりならぬ。3年でも5年でも頑張れ。必ず迎えに行く。それまで兵隊が1人でも残っている間はヤシの実をかじってでもその兵隊を使って頑張ってくれ」
この命令をその後29年間守り続けていくことになる
ルバング島へ
1944年12月 麦わら帽子にアロハシャツの民間人に変装して、ルバング島へ
ルバング島は、フィリピンの首都マニラから南へ約160キロ
伊豆大島の2倍ほどの小さな島
ここは、当時交通と通信の要とされ、軍事的には重要な場所
ルバング島で日本の守備隊は約200人
戦況
サイパンが陥落していて、海軍はレイテ沖海戦で壊滅的打撃を受けた
小野田はアメリカがルバング島へ上陸する前に、飛行場、桟橋を爆破したいと伝えたが、
仲間からは受け入れられなかった
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小野田が命令されたのは「ゲリラ戦を指導せよ」であって、それ以外の指揮権があるわけではないんですね。
アメリカとの戦闘
アメリカが上陸をして、激しい戦闘が始まった
圧倒的な物量の前にたった4日間で制空権も制海権も奪われ飛行場も占領された
日本兵は戦闘で亡くなったり、自決したものもいて、
約200人いたのが40人程になっていた
将校で残っていたのは、小野田1人
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その場においては一番高い立場となっていました
ジャングルに潜伏
幸いアメリカ軍の上陸前に食料や弾薬は隠して無事だった
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特に、この貴重な弾薬を使って、ルバング島で生きていくことになります
1箇所に集まっていると敵に包囲されたら全滅するという意見も出たため
分散(最低3人1組)して行動することにした
その後、敵の攻撃を受けて、人が入れ替わったりして
小野田は島田と小塚の三人となった
当時の年齢で島田32歳、小塚が24歳、小野田23歳
小野田は一番年齢は下だが、階級は将校で他の2人より上の立場
アメリカはこの時作戦を切り替えた
それは日本兵を島の山林に閉じ込めておくというもので、深追いしてこなかった
残された日本兵はジャングルでの生活をしていくこととなる
ルバング島には、雨季と乾季に分かれる
雨季には豪雨が山脈に川を作って流れる
そのため3人は15度ほど傾斜した密林の斜面で暮らした
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そうすると、水が下に流れていくからね
しばらくすると、毎日威嚇射撃をしていたアメリカの姿が見えなくなった
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実はこの時、終戦となっていたんですね
敵の姿は、アメリカ兵からフィリピン兵に変わっていた
その後、別の3人組の部隊がフィリピン軍と戦闘になり2人死亡し、
生き残った赤津一等兵が小野田のグループに加わる
ここからしばらく4人での生活となる
まだ戦っている日本兵に向けて投降するよう呼びかけるビラも撒かれた
その中には少し前まで仲間だった兵隊の名前入りで書かれたビラもあった
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実は、1946年4月には、この4人除く日本兵はすでに投降しているんですね
しかし小野田らは投降することはなかった
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何で投降しなかったの?
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小野田の任務の特異性からなのか、深読みをしたと言われています
ビラの文脈の不自然さや、漢字の間違いなどを見つけ米軍の謀略だと思い込んだ
さらにその後、1950年から朝鮮戦争が勃発する
遠くにアメリカ軍の戦闘機が飛び立つのを目撃したり、
海岸に船の残骸が漂着したこともあって、戦争が継続していると疑わなかった
さらに1955年からベトナム戦争があった
この時もアメリカの爆撃機が何度も飛んでいるのを見て戦争継続を確信した
ジャングルでの生活について
原始時代のようなサバイバル生活であった
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何で長い期間生活することができたの?
食事
ルバング島は熱帯気候で、食べ物が豊富な自然環境
ジャングルにはパパイヤ、マンゴ、バナナなどが自然に生えていた
野生のの豚、山猫、オオトカゲも食べたりした
また近くに暮している住民が農作業のための水牛を放牧
この牛を銃で仕留めて食料としていた
そして、何より水が豊富にあったことは大きい
島には綺麗な水が流れている所がいくつもあった
一つの場所には滞在せずに3〜5日間したら場所を移動して、
その際はねぐらや足跡、痕跡は全て消すという徹底ぶりだった
ジャングルで恐ろしい外敵
恐ろしいのは人だけでなく、ジャングルには恐ろしい外敵がいた
①アリ
外敵に会うと強いさんを放つ赤い蟻もいた。
蜂のような針を持っている種類もいて、刺されると腫れ上がり熱まで出る
実は、小野田はジャングルで寝ている時、ありに左耳の鼓膜をかじりとられた
左耳が聞こえなくなった
②サソリやニシキヘビ 寝る時は周辺の落ち葉や木をきれいに取り除いてから寝る
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何より恐れたのは?何か?
③ミツバチ 何十万匹と言う大編隊を組んで帯状になって飛ぶ 地面に伏せて少しでも動くと攻撃を仕掛けてくるので、通過するのひたすら待つ
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「編隊」であって、そういう「変態」じゃないよ・・・
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「大変態」っておが太郎のことかと思ったわ(笑)
赤津脱走
4人の共同生活が始まって4年目、1949年に赤津が脱走
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赤津は4人の中でも一番体力もなくジャングルでの生活で疎外感を感じていたと言われています
それまでにも何度か黙っていなくなる
赤津は投降して無事日本へ帰還した
しかし残された3人とっては彼は脱走した裏切者
小野田は後に出す本の中で赤津のことを脱走したと書いている
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これが、読者から批判がされて。「脱走でなく正当な行為でしょ」って。
これ・・・複雑だよね。
両者には埋まらない溝がある
その後メディアやドラマも赤津の存在はなかったかのようにされてる
赤津は帰国後も小野田らの救助のために参加し、
ビラを巻いたり、捜索隊に参加している
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この部分だけ切り取っての話ですけど、現代の価値観で言ったら赤津さんの方が正しいと思っちゃいますね。
島田の死
フィリピンも山中に武装した日本兵がいて射殺されたり被害も出ているため
治安を維持するために討伐隊を山中へ送っている
ある時討伐隊に発見され銃撃戦となり島田が撃たれて即死する
島田は約9年もの間ジャングルでの生活をしていた
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しかし島田の死亡が確認されたことで事態が動くことになります。
日本で本格的に残りの小野田、小塚の救出に乗り出しました。
彼らの家族らも加わって30,000枚のビラを用意して上空から撒いた
ただそのビラに書かれた文言で、
小野田の家族の名前が書いてあって、兄と妹の名前の漢字が間違っていた
そのため小野田らはアメリカの工作だと受け取った
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実際はビラの作成を厚生省に任せていたが、時間がなく校正せずに出したための間違いでした
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今ならそんなミス考えられないよね・・・。
兄がスピーカーで声を張り上げて呼びかけた
これには、小野田は敵は声帯模写までできるやつを連れてきたのかと疑うことになる
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もうここまでいくと何をされても信じないですよね・・・
6カ月間続いた大捜索をしたが、小野田や小塚は出てこず
捜索隊は大っきな木の幹に小野田、小塚安らかに眠れとナイフで刻んで捜索を断念
小野田・小塚は死んだことに
彼ら2人は戦死したことになった
そのため靖国神社にも祀られている
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これは日本とフィリピン政府の間で取り決めがなされたと言われています
小野田、小塚は死んだのだから、今後ルバング島で起こる殺傷事件、牛の殺害、食料の盗難事件は、日本人がやったわけではないと言う暗黙の協定なのではということです。
ラジオを入手
1965年ころに、現地の警察軍からラジオを入手
このラジオからいろいろな情報入手することができた
日本の情報もあり、終戦とか戦後という言葉を何度か聴いた
しかし彼らは日本は米軍の占領下で傀儡政権が誕生している認識でいた
真の日本政府は満州に樹立し、戦争を継続している
そのため日本軍が上陸できるように、南の海岸から北の飛行場まで、
密林の中誰にも見つからずに行ける極秘ルートを確保していた
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これは、あくまでも小野田が生前だした本からを基に話していますが、本当は日本が戦争をしていないのを気づいていたんじゃないのか・・・っていう見方もあるようです。
ラジオからは日にちを知ることができた
それまで小野田は中野学校で教わった通りメモをとらずに頭のなかで日にちを把握し、
太陽と星座の位置でおよその時間を割り出していた
その結果、実際の日にちのずれは6日間だけ
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すごいね。自分なら日にちを数えるのをあきらめてると思う(笑)
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この時20年も経ってるのに凄いよね。
小塚の死
ジャングルでの生活で27年ほど経った時に、フィリピン警察軍と銃撃戦となった
その時、一緒に行動していた小塚が胸を撃たれて即死
24歳からルバング島にいて51歳となっていた
小野田はその場をなんとか逃れた
小塚の戦死は、日本のニュースで大題的に取り上げられた
そのため再度、小野田を見つけるため上空や地上からも大捜索が行われた
日本からも家族、友人含め、100人以上が参加
フィリピンの軍隊、住民を合わせれば合計1万7千人以上の人が約6カ月間の捜索
その中には、87歳になる父親や、ガンに侵されていた姉も来て探した
結局、小野田はこれにも警戒して出てくることはなかった
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残念ながら捜索後すぐにお姉さんは亡くなって、生涯会うことはできませんでした
冒険家鈴木との出会い
捜索隊が去ってからしばらくして運命の出会いをする
冒険家鈴木紀夫との出会い
鈴木は大学を中退して一人で放浪の旅をしていた
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鈴木の夢は「小野田少尉、雪男、パンダ」を見つけること
そして鈴木は一人でルバング島へ
これまでの大掛かりな捜索のやり方とは違い
テントを張り、日本の国旗を付け待ち伏せ作戦をした
それを小野田が見つける
「殺す以外にない」と背後から銃をもって鈴木に近づく
声をかけると、「僕日本人です。僕日本人です」と鈴木は繰り返した
丸腰で靴下にサンダル履きの変わった恰好であったので殺すのをやめた
そこで、鈴木としばらく話をする
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鈴木の不思議な魅力があったんじゃないかなと思います
鈴木は小野田と話している中で、どうやったら山を降りてきてくれるのかという話をした そしたら、「上官からの任務解除の命令がない限り、ここを動くわけにはいかない。」 上官として、谷口少佐の名をあげた。 本当は直属上官は横山中将だったが、鈴木が何者なのかがはっきりしないので、 ルバング島へ派遣される前に関わりのあった上官にあたる地位の谷口少佐の名前を出した
そして、鈴木とは一緒に写真を撮って別れた
2週間後に以前捜索隊が設けた連絡箱の中に鈴木の手紙を発見
そこには鈴木と撮った写真が2枚入っていた
山下奉文大将の命令書を持って谷口少佐と島に来ました。同じ場所で待っています。
小野田は引き続き戦闘を継続しろと言う命令か、
新たな地域へ行く命令かもしれないと思いテントへ行く
そこで、谷口少佐からは作戦行動の停止、全任務を解除が言い渡された
ここで初めて日本が本当に終戦であることを彼は知る
その時、小野田はあと一週間ほどで52歳だった
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23歳から52歳直前までルバング島の人生だよ。。
小野田の帰国
小野田は日本で大々的に歓迎された
飛行機で降り立つ際、100人近い政府関係者や、家族やマスコミが迎えた
記者会見
記者の質問
「今まで、1番辛かったことは何ですか?」
・戦友を失ったことです
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ひたすら、小塚や島田の家族に謝っていたのが印象的でした
「人生の最も貴重な時期である30年間をジャングルの中で暮らしたことについて、人生を損したと思うか」
・若い勢い、盛んな時に、大事な仕事を全身でやったことを幸福に思います
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小野田さんはその後のインタビューでも、後悔をしていないんですね。
検査入院
小野田はその後検査入院のため、20日日間病院へ
身体だけでなく、精神も異常ないかなど検査されたが
もちろん健康そのものだった
ずっと40キロを超える装備を身につけてジャングルを巡回、偵察をしていた
ジャングル生活での影響
①入院させられたとき
看護婦が病室のドアを開ける前に必ず目を覚ましている
片耳は聞こえないはずだが、人の気配を感じる
②日本に帰国した初めのうちは、平らなとこに寝ることができずに、
15度ほど傾けなければ眠ることができなかった。
![長まろ](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/74fec077ca9edb1bc28559d04eb39f7f.png)
傾斜地で過ごしていたからだね・・・
その後
小野田は変わり果てた日本になじむことができなかった
靖国神社へ行けば、軍国主義復活に加担するのかと言われたり、
何でもお金が優先される戦後の日本に絶望感を覚えた
二番目の兄がいるブラジルへ渡り、
小野田牧場を経営して過ごす
そこで、日本人女性と結婚し過ごした
91歳で亡くなってる
小野田はインタビューで
「命じるままに戦っただけ。同じ時代の人々も命じられたところで戦った。私はただ、少し遅れて帰ってきただけ。」と言っている
![おが太郎](https://otokin.com/wp-content/uploads/2022/05/818202025dbcf6da7f704e9288b9fc96.png)
1945年に終戦ってなってるけど、
戦争はそこで、「はい、終わり」にはならないし、
後々まで色んな人の人生を巻き込むものだなと思いました。