「大正」時代初期に民衆運動・政党の運動によって、
「政」局が大きく「変」化したことから、
今回の事件のことを大正政変と言います。
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大正政変とは
時代背景
大正政変・・・1913年(大正2年)2月に起こった民衆運動
1901年~ 桂園時代が始まる
桂園時代とは
桂太郎と西園寺公望が交互に首相の座に就いた時代
政敵同士が妥協しあった結果、政治が安定していた
※妥協とは・・・お互いに政権運営に協力すること
桂 太郎(かつら たろう)、1848年1月4日〈弘化4年11月28日〉- 1913年〈大正2年〉10月10日)は、日本の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣(第11代、13代、15代:第1次桂内閣、第2次桂内閣、第3次桂内閣)、台湾総督(第2代)、陸軍大臣(第5代)、内務大臣(第18代)、文部大臣(第23代)、大蔵大臣(第13代)、貴族院議員、内大臣、外務大臣(第17代)などを歴任。日露戦争時の内閣総理大臣で、西園寺公望と交互に総理職を務めた期間は「桂園時代」と呼ばれた。軍人としての階級は陸軍大将で、栄典は、従一位大勲位功三級公爵。「元老の一人であった」という説もある[注釈 1]。元老の井上馨とは義理の親子の関係であり、児玉源太郎、川上操六とともに「明治陸軍の三羽烏」と称された[要出典]。
「ニコポン宰相」[4][注釈 2]の異名を持つ。通算在職日数は2,886日(2019年12月現在歴代2位)。第3次内閣は第一次護憲運動を受けて退陣し、同年に病没した[6][7][8]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E5%A4%AA%E9%83%8E
西園寺 公望(さいおんじ きんもち、1849年12月7日(嘉永2年10月23日)[注釈 1] – 1940年(昭和15年)11月24日)は、日本の公家、政治家、教育者。位階・勲等・爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒[注釈 2]。
戊辰戦争において官軍の山陰道鎮撫総督を務め、フランス留学後には伊藤博文の腹心となった。第2次伊藤内閣にて文部大臣として初入閣し外務大臣を兼任、第3次伊藤内閣でも文部大臣として入閣した。第4次伊藤内閣では班列として入閣し、内閣総理大臣の伊藤博文の病気療養中は内閣総理大臣臨時代理を務め、のちに伊藤が単独辞任すると内閣総理大臣臨時兼任を務めた。
明治36年(1903年)には伊藤の後を継いで立憲政友会総裁に就任し、明治39年(1906年)内閣総理大臣に任じられ、第1次西園寺内閣、第2次西園寺内閣を組閣した。この時代は西園寺と桂太郎が3度にわたって交互に政権を担当したことから「桂園時代」と称された。
その後は首相選定に参画するようになり、大正5年(1916年)に正式な元老となった[1]。大正13年(1924年)に松方正義が死去した後は、「最後の元老」として大正天皇、昭和天皇を輔弼、実質的な首相選定者として政界に大きな影響を与えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E6%9C%9B
ちなみに桂太郎は首相在位2886日で歴代第2位の在位日数です。
1位は故安倍晋三元首相となります。
安倍さんすごいね!
今回の大正政変はここからの時代の流れが大事になってくるので、
桂園時代の大枠の流れから解説します!
第一次桂太郎内閣(1901年~1906年)
桂太郎は藩閥政治の流れを組む政治家です。
バックにいるのは山縣有朋ですね。
1904年に日露戦争が起こったため
立憲政友会と日露戦争が落ち着くまでは政権運営に協力する
落ち着いたら内閣解散で政権を譲る密約を結ぶ
日露戦争後の賠償金が取れなかったため日比谷焼き討ち事件など起こる
戦争処理が済んだ時点で約束通り退陣
第一次西園寺公望内閣(1906年~1908年)
西園寺公望は立憲政友会(政党)の代表です。
バックにいるのは伊藤博文です。
日露戦争後の不況を解消するため
産業の振興などに力を入れるも失敗
政権内部にも敵が多く解散に追い込まれる
西園寺公望は立憲政友会の代表ではありますが、
組閣自体は閥族派の影響が大きく、内部で意見がまとまらなかったんですね
第二次桂太郎内閣(1908年~1911年)
西園寺内閣に引き続き財政再建に当たるもうまくいかず
貧困層の増大で社会主義が増えてきた
社会主義思想は貧困層の方が受け入れやすい思想だからです。
逆を言えばお金持ちは資本主義の方がいいんですよね(考えてみれば当然ですが・・・)
1910年 大逆事件が起こる
危険思想を持っている人を片っ端から捕まえた
詳しくは「大逆事件」の回を聴いてください!
同年、韓国併合をし帝国主義政策を推し進めたこともあり
民衆の反発が予想以上に大きくなったため総辞職した
第二次西園寺公望内閣(1911年~1912年)
1911年 辛亥革命により清が滅びる
山縣有朋は中国を攻撃し日本の影響力増を考える
山縣有朋が当時の陸軍大臣上原勇作にその考えを伝える
上原勇作は陸軍の軍備拡張(陸軍2個師団増徴問題)を提案
1個師団戦時中は2万5千人ほどの人数を召し抱えることになり、
とにかくお金がかかります。日露戦争後でお金がなかったこともそうですが、
当時の仮想敵国はアメリカにシフトされつつあり、
陸軍より海軍を増強したかったこともあり、西園寺公望はこれを断ります。
軍備拡張を断られたことで上原勇作が陸軍大臣を辞める
また、陸軍は後任の陸軍大臣を出さないと宣言する
軍部大臣現役武官制
軍部大臣は現役の陸軍から選ぶ必要がある
後の広田弘毅内閣の時にも出てくるよね!
西園寺内閣は組閣をすることができなくなり総辞職せざるを得なくなる
これってつまり軍部の言うこと聞かなかったらやめさせられるってことなんですよね
第三次桂太郎内閣(1912年~1913年)
辞職に追い込んだ側の人間が内閣を組閣したことで民衆の反発がさらに強まりました。
立憲政友会の影響力が日増しに強かったので
桂太郎は対抗するために立憲同志会を立ち上げようとする
これにより立憲政友会も「妥協」する必要がなくなり、
藩閥政治に対する完全に敵となるわけです。
第一次護憲運動 立憲政友会の尾﨑行雄、立憲国民党の犬養毅らが 「憲政擁護・閥族打破」のスローガンを掲げ反対運動を起こす
内閣不信任案の提出をされそうになったため
桂太郎は阻止するために議会を5日間停止する
その間に民衆の意見を取り入れようとするが
国会を取り囲んでデモが起きており、危険な状態となっていた
デモは暴徒化して警察署や交番を襲撃
政府寄りの記事を出す新聞社なども襲撃される
収集がつかなくなった桂太郎内閣は総辞職します。
民衆運動が内閣を潰すこととなりました!
ここまでの流れを大正政変と言います。
まとめ
民衆の意見が政治に反映されにくかった時代において、
民衆や政党の力で政治を大きく動かしたという点で、
大正政変はとても画期的な事件であったと言えるでしょう。
その後は民衆たちが政府に対して民主主義的(民本主義)な政策を求める
大正デモクラシーと呼ばれる動きが活発になります。
民主主義の国になったんだってことが感じられる出来事でしたね!
大正政変自体聞いたことがなかったから勉強になりました!