
ヤオレにくき奴隷鬼よ
いかに人種は違うとも
いかに情を知らぬとも
この場に望みて我々を
すてて逃るは卑怯者
ノルマントン号沈没の歌より
事件の概要
1886年10月23日午後3時
横浜港から日本人乗客25人と貨物を乗せたイギリス汽船ノルマントン号が神戸に向けて出航
しかし10月24日午後8時頃、紀州沖で嵐に巻き込まれ暗礁に乗り上げてしまう
船長のドレークの指揮で暗礁から船を下ろせたものの、
舩には大きな穴が開いてしまったため海水が入って沈没してしまった
船長やヨーロッパ人(イギリス・ドイツ)・中国人乗組員1名は避難用のボートを降ろし乗り移ったため助かった
しかし日本人乗客25名とアジア系乗組員13名が船に取り残されたため亡くなった
なぜ助けなかったのか
神戸のイギリス領事官で乗組員への審問の際にドレーク船長は
「日本人乗客にボートに乗り移るようすすめたが彼らは応じなかった」
←言葉が通じなかったからとも言われている
←貨物船のため日本語を話せるスタッフがいなかった

何とこの陳述が認められて船長以下全員に無罪判決を下すことになります。
ちょっとありえないですよね・・・
これに日本国民が激怒する
新聞などでは連日、ノルマントン号事件の記事が掲げられ、
この動きを政府も無視できなくなる
「難破船の場合に、最後に船を去るべき者は船長なるのが世界の通法にして、これをしらざるものはない。実際、そうするのが普通であり、もしもこれを知らない船長がいたら再び社会には戻ることはできない。ただ、西洋の法律は東洋に適用すべきではなく、東洋人は一種の下等人類であり、礼を失し、情を失い、危難の場合に見殺しにしたりとしても人間の道に違う所為といってはいけない。ことに外国船で日本沿海で旅客を運送するものは、船客として日本人を乗せるものではなく、一種、生き物の貨物と考えて船倉に積む。運賃も安く、取り扱いも乱暴無情で船長の眼中には旅客あると認めてもいない」
「たまたま風雨が変われば、生類の貨物のある入り口に外から鍵をかけて船員の妨げにならないようにし、結局沈没するとなっても鍵を開けて命を助けるなどとは思わず、自分たちはゆうゆうとはしけに移り、浮袋を肩につけて遠くへこぎ出す。ノルマントン号の難破もまたこの一例に過ぎないのではないかという話があるが、今日のところはまだ断言できない。しかし、ともかく十分に不審の念があり、不快の感覚がある」
世論の過熱から当時の井上馨外相がドレーク船長らの出船を取りやめさせ
最終的には兵庫県知事名義でドレーク船長らを殺人罪で訴えることになる
横浜のイギリス領事裁判所で開かれた公判で禁固3か月の判決が下った
ただし遺族への賠償金は支払われなかった
代わりに遺族には義援金が分配されそこから見舞金として支払われた
有罪判決が出たことで徐々に世論の熱も冷めていった
船倉に閉じ込めたかどうかは船を引き上げて確認することもできたが
超大国を刺激しないためなのか、話はなくなった

真相は海の底に沈んだままとなりました
事件が与えた影響
日本は欧米に対して領事裁判権を認めてしまっていた

領事裁判権を認めてしまうと、日本で罪を犯した外国人はその本国の法律および領事から裁判を受けることになります。
日本で罪を犯した外国人であれば、日本の法律で裁きたいですよね
これは江戸幕府が諸外国と結んだ不平等な条約の影響
このことから日本国民の間で条約改正の声が高まることとなる
時代背景からも民権運動が高まっていた時期であり
なおさら国民感情は高まったとも言える
日英間の不平等条約は、ノルマントン号事件の8年後の1894年に
日英通商航海条約締結により領事裁判権が撤廃された

ノルマントン号事件は不平等条約改正のきっかけとなった事件として有名になりました。
日本はこうやって少しずつ世界的な地位を高めていくことになりますが、その裏には常に大きな犠牲があったことを忘れてはいけませんね。