私は時間の中で閉じ込められた 生きた博物館の展示物でした。
── 愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)
2歳で皇帝に。清朝の終焉と「紫禁城」暮らし
- 1906年:第11代皇帝 光緒帝の弟・愛新覚羅載灃(さいほう)の長男として生まれる
- 1908年:光緒帝が崩御。2歳で「宣統帝」として即位(史上最年少)
- 1911年:辛亥革命、各地で清朝への反乱が拡大
- 1912年:清朝滅亡、溥儀は退位
しかし、中華民国臨時大総統・孫文との取り決めで、「皇帝の称号」や「紫禁城での生活」は保証されていた(優待条件)。
追放された元皇帝、そして日本へ
- 1924年:馮玉祥によるクーデター(北京政変)で紫禁城を追放
- 日本が天津の租界地に溥儀を受け入れる
- 以降、日本と接近していく
満洲国の「執政」就任
- 1931年:満洲事変、日本が中国東北部を占領
- 1932年:日本の支援で「満洲国」建国、溥儀は執政(国家元首)に就任
「志を殺して大勢に順応するしかなかった。日本をうまくあしらえば、皇帝に戻れるかもしれない」
溥儀は再び「皇帝」に返り咲くことを密かに期待していた。
紙の上の皇帝
「満洲国組織法」では、執政は立法・行政・軍事の権限を持つとされたが、
「自分の外出すら決められなかった」
- 実際の権限は関東軍が握っており、日本人「次長」が実務を支配
- 国務会議も形式だけ、日本の承認なしには何も決まらなかった
「満洲帝国皇帝」即位と喜び
- 1934年:日本政府、溥儀を「皇帝」として即位させる
「全く嬉しくて、天にも登る気持ちだった」
即位にあたり、清朝時代の「龍袍(ロンパオ)」を着たいと望んだが、日本側の意向により軍服での即位に。
古式にのっとり「龍袍→軍服」へと着替え、形式と本音の妥協を行った。
「天皇と同等」という幻想と幻滅
- 1935年:日本訪問。昭和天皇が自ら迎える
「天皇と私は平等だ。地位は同じだと思った」
しかしそれは幻想だった──。
林銓事件:関東軍への不満を漏らした満州国高官 林銓が斬首刑に。
「陛下1人を殺して、100人への見せしめとするのは必要です」
これを機に溥儀は「日本と対等」という幻想から覚めていく
帝位継承と「死」の恐怖
弟・溥傑が日本人女性「嵯峨浩」と結婚、子が誕生。
帝位継承の可能性が弟の子に移ることを恐れ、溥儀は精神的に追い詰められていく。
- 「嵯峨浩」から送られた食事を口にしない
- 日々、暗殺の恐怖と向き合う
愛のない結婚と秘密
- 皇后・婉容(えんよう)との関係は冷え切っていた
- アヘン中毒で体は衰弱、婉容は1946年に39歳で死去
また、溥儀は生涯で5人の女性と結婚したが、子をもうけることはなかった。
幼少期の「宦官」や「女官」との異常な生活環境が、性機能に影響したとも言われる。
もう一つの顔──暴力と支配
溥儀は「わが半生」の中で、自身の暴力性について語っている。
- 怒鳴る、殴る、拷問器具での体罰
- 逃げた者は追跡・制裁、死亡者も出た
イギリス人教師ジョンストン:「真面目と軽薄の二面性、不健全な育ちの影響」
終焉、そして「市民」へ
- 1945年:日本の敗戦とともに満州国崩壊
- 溥儀はソ連に拘束され、中国に引き渡される
- 「思想改造(共産主義教育)」を受ける
- 1959年:釈放、以後は一般市民として生きる
- 1964年:「わが半生」出版
時代に翻弄されたラストエンペラー
- 2歳で皇帝、しかし何もわからぬまま時代に流され続けた
- 最後の将軍・徳川慶喜と同様、権力の頂点から転落
- ただし、慶喜は執着せず退いた。一方、溥儀は権力にしがみついた
被害者なのか、野心家なのか──彼の「本心」は今なお謎である。
【訪問地】偽満皇宮博物院(長春)
溥儀が公務を行った場所。
- 婉容がアヘンを吸引していた部屋も再現
- 映画「ラストエンペラー」の撮影地にもなった
分身像──2人の溥儀
笑わない写真、交わらぬ視線。
表と裏、理性と衝動──2人の溥儀が同居していたのかもしれない。

おが太郎
今回の参考文献です