
「上帝室に在らず、下人民に在らず、しかもひとり有司に帰す」
民選議員設立建白書のなかで当時の政権の在り方を批判した言葉です。
今政権を担っているのは天皇でも国民でもなく、雄藩出身の政治家だけという意味です。
自由民権運動について
明治6年の政変で明治政府は分裂した
板垣退助は政府を辞めた人々を集めて愛国公党(政治結社)を結成
一握りの役人が政権を牛耳っていることを批判、国民が選んだ人に政権運営をさせるべきと主張
←自由民権運動が巻き起こる

詳細経緯は自由民権運動の回をご覧ください!
国会(帝国議会)開設について
自由民権運動の盛り上がりの中、政府内でも意見が分かれた
なぜなら列強国の多くで民主的な国会があったから
国内が不安定なのは国会がないため(民意が反映できないため)
←例:西南戦争、自由民権運動
しかしどんな国会にするか、主に国会の権力と天皇の権力のバランスの部分で意見が割れていた
←天皇中心の政治権限、国会は制限すべき(伊藤博文)
←君臨すれども統治せず、イギリスを真似る(大隈重信)
大隈重信はすぐに議会を開くべき
伊藤博文は徐々に議会を開いていくべき

大隈の方が急進的だったんですね。
しかしそんな中事件が起きます。
大隈は伊藤や岩倉を抜かして左大臣有栖川熾仁親王に国会開設を認めてもらおうとする
しかし有栖川宮熾仁親王はそのことを岩倉に相談したため、大隈の行動が伊藤にもバレてしまう
内密に意見状まで提出していたことに怒った伊藤博文は辞表を出す
これは一種の脅し、岩倉に大隈の言うことを聞かせないためと言われている
1881年 開拓使官有物払い下げ事件
300万円を使って北海道の土地を開拓していたが、
その開拓した土地を黒田清隆が39万円で五代友厚に売ろうとしていたことがリークされる
☞国家予算を使って開拓した土地を激安で売ろうとしていた
☞税金を私物化していたことに民権派が怒り政府に反発する
民権派を抑えきれなくなった政府は10年後の国会設立を宣言
1881年 国会開設の勅諭

その後1890年に国会設立されます
大隈がマスメディアに情報をリークしたうわさが流れる
当初より伊藤博文は大隈重信に不信感を抱いていたこともあり、
この噂をきっかけに政府から大隈を追い出した
元々伊藤博文は明治天皇からの信頼が厚かったため、天皇からも裁可をもらいやすかった
☞明治14年の政変
明治6年の政変に続き再び政府が分裂してしまう
国会開設が決まり、次は選挙へ向けた準備となる
大隈重信はイギリス流の議会を目指し立憲改進党を立ち上げ、
板垣が率いていた国会期成同盟は役割を終え、自由党を立ち上げることになる
明治政府は天皇中心の国会を目指すべく行動していくことになる
帝国議会の開設
1889年の大日本帝国憲法により設置することが決められた
1890年に開設
※超然主義
議会が政府の政策に大きな影響を与えないようにする
二院制(衆議院と貴族院)が取られることになった
衆議院は国民の選挙で選ばれる
貴族院は身分の高い人のみが選ばれる
法律は両議院で可決されないと通らない仕組みであり、
これによって民意の暴走をコントロールしようとした
まとめ

日本の民主主義は大きく前進しましたが、天皇中心の国家体制を目指していたため
民意の反映は限定的とも言えます。
しかし全く民意を反映できなかったわけでもありません。
こうやって少しずつ日本は変わっていったんですね。
放送ではお話しなかったこと

今の国会議事堂は1936年に建てられてます。
1890年の国会開設時はどこでやっていたかというと、仮議事堂で行われていました。
なお、当時の建物は消失していてもう無いです。
その後変遷していき今の国会議事堂が使われるようになりました。
■ご参考