
「今日の戦闘、明日の戦闘、明後日の戦闘と勝利を一戦、一戦積み重ねていくことで、
一年先の我々の勝利を確実なものにしていく」
参考文献にも記載してある『ラバウルで待っていて』の一説です。
今回のお話で紹介するエースパイロット(撃墜王)もまさに一戦一戦勝利を重ねた功労者であったと思います。
※ちなみに敵5機以上撃墜撃破すると「撃墜王」と呼ばれるらしいですね。
ラバウル航空隊とは
第二次世界大戦期に日本海軍が南太平洋の要衝ラバウルを拠点として展開した航空部隊の総称
南東方面の戦局を支えた重要な日本軍の航空戦力
ラバウルは深い天然の良港と堅固な防備を備え、当時「南太平洋のジブラルタル」と呼ばれた。
日本は1942年初頭にラバウルを占領すると、同地に大規模な飛行場群を整備し、
基地航空隊や陸上攻撃機隊、戦闘機隊などを順次配備した。
これらの航空隊は、ガダルカナル、ブーゲンビル、ソロモン諸島一帯における航空作戦の中心として、
連合軍艦船の攻撃、輸送路の遮断、陸軍部隊の支援など多面的な任務を担った。
特に「ラバウル航空戦」と総称される一連の戦いでは、日本側は熟練搭乗員を投入し、戦争初期には高い戦果を挙げた。
しかし、連合軍の航空戦力増強とレーダー網の整備、長距離爆撃機の投入などにより次第に劣勢へと追い込まれた。
加えて消耗の激しさから、戦闘機搭乗員の熟練度が低下し、補給路の寸断により整備や燃料の確保も困難となった。
その結果、1943年以降は戦力維持が急速に困難となり、ラバウル航空隊は防空に重点を移しながらも持久戦を余儀なくされた。
最終的にラバウルは連合軍によって包囲・隔離され、直接攻略されることはなかったものの、航空隊は物資不足と損耗によって戦力としての機能を大幅に喪失した。それでも終戦まで拠点を守り続けたラバウル航空隊は、日本の南太平洋戦線を支えた象徴的存在と位置付けられている。

放送では細かくお伝えしませんでしたが、持久戦に耐えるため、ラバウルでは自給自足体制の確立や地下陣地の形成などしており、長期戦を強いられても持ちこたえられるようになっていました。(結果的に要衝としての機能を失っていたため、敵から本格的に攻められることもなかったのですが。)
杉田庄一「空戦の神様」
1924年新潟県上越市生まれ
家が山の中であったので足腰が鍛えられていた

軍の訓練より家での生活の方が厳しかったそうですね。
1940年海兵団に入団し、1941年に戦闘機専修練習生となる
1942年に零式艦上戦闘機で大型爆撃機の迎撃訓練中に本物の米軍爆撃機B-17と遭遇
このとき飛行機ごと体当たりで相手の右主翼を破壊し、見事撃墜することに成功
その後撃墜撃破100機以上と言われるエースパイロットとなる(公認は70機)

日本海軍では1942年末以降、個人撃墜数を記録していないため、正式な数は不明です。
山本五十六連合艦隊司令長官の護衛任務にあたるが、
暗号解読によって待ち伏せされていた米軍機に襲われてしまう
杉田は敵機と交戦し2機撃墜撃破したが、山本長官の乗る一式陸攻は撃墜されてしまった。
護衛の任を全うできなかったことにひどく苦悩を強いられてしまう
その後も数多くの戦果を上げたり後進の育成に努めることになるが
鹿屋基地で機体離陸直後に敵に襲われ墜落、戦死した
享年20歳の若さで、婚約者を残しての死であった
坂井三郎「大空のサムライ」

戦後に渾名と同じタイトルで本を出していて、有名な方です。
1916年佐賀県佐賀市生まれ、農家の貧しい家育ち
父親が若くして病死し、見かねた親戚が引き取る形で東京に上京
そこで学校に通うが成績不振で退学処分となった
その後実家に帰り農業に従事するが、農作業中に見た飛行艇に憧れ、
海兵団へ入団することになる(航空兵で志願したが2回落ちてる)
海兵隊では砲手に任命されるが、飛行機の憧れを捨てられず猛勉強
見事操縦練習生として合格することになり、晴れて航空隊に入隊することになる
練習生としてめきめき実力をつけていき最終的に首席で卒業することになる
中国に配属され支那事変で九六式艦上戦闘機に乗り活躍する
その後台南空を経てラバウルに配属となる
★坂井の悪知恵エピソード
新任上官の笹井中尉の戦闘教育を任され、笹井からは厚い信頼を得ていた坂井。
そんな信頼を見越してなのか、坂井は現地のタバコを吸っていた。
(現地のタバコは麻薬成分が含まれていたため軍内で禁止されていた)
笹井中尉にそのことがバレたため叱責されたが、坂井は反論する。
台南空司令部の士官にだけ上等な煙草が支給されていたため、そのことを逆に非難した。
それを聞いて兵たちの待遇の悪さを見かねた笹井中尉は士官向けのタバコを箱一杯に詰めて
「みんなで分けろ。あんなくだらん煙草は捨てろ」と指示した。
現場としては大喜びであったが、実はこれは坂井の思惑通りだったとも言われる
←笹井中尉の人柄を見越してわざとやったのでは・・・?とも言われている。
【命からがらの生還】
戦闘からの帰路で油断して敵機に近づきすぎてしまい、敵機からの集中砲火を浴びてしまう
かろうじて墜落は免れたが右前頭部を負傷し、左半身が麻痺、また、右目も負傷した。
飛行機の計器すら見えないほどの重傷を負ってしまう。
意識を失い無意識で水平飛行を行っていた。
意識を取り戻すと飛行機は逆さまの状態だったが、すぐに立て直した。
ひとまず出血を止めるため持っていたマフラーを負傷した前頭部に当て止血した。
そのまま出血多量による意識喪失を繰り返しながらも4時間も飛行し、ラバウルに帰還した。
坂井は撃墜数よりも200回以上の出撃で一度も撃ち落とされていないことが誇りだと言っている。
(200回の出撃数には諸説あるので・・・)
撃墜数は自称64機、公認撃墜数は28機
西沢広義 「ラバウルの魔王」
1920年長野県生まれ、美男子であり身長は180センチ以上とも言われている
実家は農家、養蚕業を営んでいた
そのため西沢はその伝手で生糸工場に就職した
海軍飛行予科訓練生の募集広告をみて応募、見事航空兵として任官する
その後、台南航空隊に所属する
ちなみにここで坂井三郎とも出会うことになる。
★西沢の発案でポートモレスビーで宙返り飛行をした??
坂井の証言によると、坂井三郎と西沢広義と太田敏夫3名で敵基地のあるポートモレスビーまで行き
空中ショーを披露したとされている
→しかし、公式な記録によればあり得ない出来事とのこと・・・

これに限らずですが、坂井三郎の語るエピソードには当時の状況から矛盾することがいくつかあります。
諸説ありくらいのイメージで思っていただければいいのではないかと。
ちなみに上記3人は「台南空の三羽烏」と呼ばれる実力者たちでした。
卓越した飛行技術を武器に撃墜数を重ね、100機撃墜記念に白鞘の軍刀を授与されるほどの腕前であった
1944年に関行男大尉率いる神風特別攻撃隊敷島隊の直掩し、戦果を確認
その時の成果としては米空母を撃沈するほどの大戦果であった

しかし関大尉ほどの優秀なパイロットの命を使わなくても空母は破壊できたのではないかと、特攻隊のやり方に懐疑的であったとも言われています。
皮肉にもその戦果を見届け報告した翌日に、自信が乗る輸送機を米軍に攻撃され戦死する
日米両軍を通じたトップエースの一人であり、
公認撃墜数は87機、戦死時の新聞報道では150機以上とも言われた

ちなみにアメリカのスミソニアン航空博物館に、第二次世界大戦における日本の「エース」として肖像画が掲げられている零戦パイロットは2人いるのですが、先に挙げた杉田と西沢です。
(何で岩本が選ばれていないんだろう・・・とは思いますが)
岩本徹三「零戦虎徹」
1916年樺太で生まれ、その後島根県へ移り住む
大学受験と偽って海軍航空科に入学

岩本は三男であったため、「お国のためにこの命を捧げます」と両親に伝えたというエピソードがあります。
岩本が初めて活躍したのは支那事変であり、初陣では敵機5機を撃墜した
また、中国での戦闘半年の間に日本軍最多数撃墜数14機の記録を出す
ラバウル方面では珊瑚海海戦に参戦し活躍した
岩本は一撃離脱戦法を得意としていた
←いち早く発見した敵機を一気に攻撃して離れる戦法(ヒットアンドアウェイ)
ただこれには味方からも卑怯だという声があった
そんな声に対して岩本は一撃離脱戦法が弾数や燃料を節約できるだけでなく、
撃墜される確率を減らす最も有効な方法であると言っている
★岩本と西沢のエピソード
岩本が「敵が来る時は退いて敵の引き際に落とすんだ。つまり上空で待機してて離脱して帰ろうとする奴を一撃必墜するんだ。すでに里心ついた敵は反撃の意思がないから楽に落とせるよ。」と言ったことに対し、
西沢は「岩本さんそりゃずるいよ。私らが一生懸命ぐるぐる回りながらやっているのを見物してるなんて。途中で帰る奴なんか、被弾したか、臆病風に吹かれた奴でしょう。それでは(他機との)協同撃墜じゃないですか。」と言った。
それに対し岩本は「でも、俺が落とさなくちゃ、奴ら基地まで帰るだろ?しかしいつもこうしてばかりもいられない。敵の数が多すぎて勝ち目の無い時は目をつむって真正面から機銃撃ちっぱなしにして操縦桿をぐりぐり回しながら突っ込んで離脱する時もあるよ。」と言った
1938年の日中戦争から終戦までの7年間を、第一線で戦い抜いたエース
総撃墜数は202機、公認80機

総撃墜数は日本のパイロットの中で最多を誇ります。
(公認だけなら西沢ですが)
終わりに

もし戦争が無ければ今紹介したエースパイロットたちも普通の生活を送れていたのではないかと思うと複雑な気持ちになります。

でも優秀な人だったから別の形で活躍したかもしれないね!

