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いつも夢の中、いつも何かに夢中。by前澤友作
■生い立ち~漂流 1827年 現在の高知県土佐清水市中浜で生まれた万次郎 5人兄弟の次男で、彼の家は主に漁業をしていてその傍ら農業もやっている家 8歳の時に父親が突然亡くなる 当時、子供が幼いうちに父を亡くした一家の生活は厳しく 万次郎は寺子屋へ通うことができなかった その為、文字の読み書きさえ知らない。 長男が生まれながら病弱で漁業に耐えられそうになかったため 次男の万次郎が家計を支える為、漁に出ることになる。 1841年1月 初めての漁に出る。 メンバーは船頭含めて5名 船は全長約7.6メートルの人力で櫓を漕ぐタイプのもの。 漁に出て3日目の朝、北西の激しい風が吹き海の流れが強くなった 必死に櫓を漕いだが折れて、さらに予備の櫓は流されてしまった。 持っていた食料、魚を釣って飢えをしのぎ、雨水を飲んで何とか過ごした。 漂流して6日目に島が見えてきた。「鳥島」である。 きりだった岩が連なり上陸地点が見つからなかった。 翌日、大波にあわせて島に近づいたが岩に激突し船は木っ端微塵になってしまった。 荒波に投げ出され必死に島へとたどり着いたが、 船員1名が岩に右足をぶつけて骨折して立ち上がることができなくなってしまう。 この鳥島は無人島で 岩だらけの島である。 海岸から30メートルほど上ったところに洞窟がありそこを寝床などにした。 2千羽以上のアホウドリがいた。 アホウドリは毎年11月から12月にかけてアラスカ方面から鳥島に来て産卵、 子育てをして4月から5月にかけて北へ帰る渡り鳥である。
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こんな感じで漂流生活を迎えます。
ちなみに「アホウドリ」は 人に対する警戒心がないうえに容易に捕まえることができた そうです。
■無事発見される・・・ アホウドリはたくさん生息しており、捕獲も簡単だったため、 親鳥は捕まえて生肉として食べ、残りは干して保存食とした。 卵はニワトリの6倍ほどの大きさで生のまま飲んだそう。 卵の殻も雨をためて飲み水とするなど工夫した。 しかし、4月に入るとアホウドリが巣立ちして島を去ってしまった。 保存食の肉も底をつき、海藻と貝類のみとなる。 6月は雨が降らなくなり1日1回貝殻の雨水を飲むくらいしかできなかった。 餓死寸前のとこで、二隻のボートが来るのを見えた 万次郎は船を見つけ手を振りそして小舟に泳いでいき助けられた。 その後残りのメンバーも助けられたが、全員かなりやせ細っていた。
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ちなみに江戸時代では15例ほど鳥島に漂流し、自力で脱出している記録が残っています。
■捕鯨船に救出される 万次郎たちを救助してくれたのはアメリカのジョンハウランド号 マサチューセッツ州ニューベッドフォードからきている捕鯨船で船の長さ34メートル 船長は37歳のウィリアム・ホイットフィールド 乗組員は34名いた。 船では最初少量のパンと野菜スープと言う少ない量が出された 長らく飢餓生活をしたものにいきなりたくさんの食物を与えると消化器、 特に胃腸の具合を悪くし最悪の場合は死に至ってしまうためである。 徐々に食事の量を増やし、衣服も与えられた。 船内で万次郎は、「マン」、またはジョンハウランド号のジョンをとって 「ジョンマン」と呼ばれた。 万次郎は好奇心とコミュニケーション能力が高かった。 万次郎は命の恩人に対して、自発的に船の手伝いをしたり、 高いところに上り見張り番をして鯨をみつけて貢献して特に気に入られた。 船員から捕鯨船の仕事が少ない夜間に英単語等を教わった。 地球儀で世界の地理を教えてもらったり、積極的に聞いて世界のことを覚えようとした。 一方、他の仲間は江戸幕府の掟で外国人との接触はたとえ帰国できても 死罪となる可能性があることから避けていた。
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捕鯨船は名前の通りクジラを捕獲するのですが、目的は「鯨油」です。
ランプの油、ろうそく、石鹸、薬品、ポマードなどになり、高値で取引されていました。
※今は、アメリカは反捕鯨、日本は数の多い種類の商業捕鯨を2019年に解禁
■オアフ島へ 万次郎たちを救助した船はハワイのオアフ島に立ち寄り、ここで暮らすよう勧めた。 その頃、ハワイはアメリカではなくハワイ王国の時代であった。 ただ船長は万次郎だけはアメリカに連れて教育を受けさせたいと思っていた。 船長はこの航海の前にルース夫人を亡くしていた独り身だった。 何より万次郎が相当気に入っていた。 万次郎は悩むことなく船長についていくことを決めた。
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ハワイではなく日本には帰してくれなかったの??
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日本は危険だから送れないと判断したんだよね。
1837年アメリカ、モリソン号がマカオに保護されていた日本人漂流民7名とともに浦賀港へ入港しようとしたが、陸から砲撃された事件があったため。
■アメリカでの生活
捕鯨船はマサチューセッツ州ニューベッドフォードに戻った。
この時点で万次郎は漂流して2年半、そのうち約2年間は捕鯨船にいたこととなる。
ジョンハウランド号は3年半で約60頭の鯨を捕獲した。
その当時、世界で捕鯨は行われていたがそのうちの8割はアメリカであった。
ニューベッドフォードから船長の住んでいたフェアヘーブンに行く
。
人口約6千人ほどの街
船長は家庭を持とうとニューヨークからアルバティーナという妻を連れてきた。
万次郎を金持ちの子供らが通う、オールドオクスフォードスクールに通わせてくれた。
万次郎はアメリカで愛情込めて育てられ、人間が平等であることを教わった
船長の期待に応えるべく農作業を手伝いながら勉強をした。
そのため優秀な成績で卒業した。
さらに就職するものが多い中、難関校へチャレンジし行くことになった。
(バーレットアカデミー(マサチューセッツ工科大学の前身))
そこで航海術、測量術、高等数学、近代史を学ぶ。
成績が悪ければ何年経っても卒業できないが、
万次郎は2年間で卒業している。成績も首席だったと言われている。
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寺小屋にも行けなかった万次郎ですが、日本にいれば埋もれていたかもしれません。
日本人として初めてアメリカで高等教育をうけている人物 になります。
■再度捕鯨へ ホイットフィールド船長は再度捕鯨へ行くことになる。 万次郎は学校を卒業して間もない頃、かつてジョンハウランド号で一緒に過ごした アイラ・デービスにフランクリン号での捕鯨に誘われた。 万次郎は19歳で再度捕鯨船へ 書記官として、航海日誌の作成、捕鯨情報の収集を行った。 後々、船の操作や測量など重要な仕事を任せられるようになり一等航海士に任命。 南の島々を訪れる中で、ヨーロッパに植民地化されキリスト教が布教されている現実を見た。 学校で習ったのは皆平等で自由な社会、民主主義とは名ばかりの実態を見てしまう。 それと同時に日本の未来に危険を感じた。 日本の近海(小笠原諸島など)にも行っている。 サバイバル生活をした鳥島にも行った。 オアフ島でかつて漂流したメンバーたちと再会する。 かつて漂流の時に足のケガをした船員は足は治ったが赤痢で亡くなっていた。 そんな中、船長が精神的におかしくなって奇怪な行動がみられた。 何年も船の上の生活であり、厳しい条件での航海、船員の管理など精神を病むものは多い。 そこで船長をマニラのアメリカ領事館に預けるため、船から下ろした。 その後、万次郎は副船長として航海することとなる。 約40ヵ月の航海に出てクジラ500頭を捕獲。 クジラの油は数千樽となった。 万次郎は報酬として金貨350枚を受け取ることとなる。
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・・・とここまでが放送1回目までの話です。
Youtubeでの音声はこちら👇
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勇気は、状況によっては愚者の無謀な選択となる。by ホイットモア船長(万次郎を日本へ送り届けた人)
本当の勇気とは正しい判断を平然とこなすことだから、上陸が困難と判断したら引き返すようにって意味です。
捕鯨船に乗って得た350ドルは、アメリカで一年程度はのんびりと暮らせる金額ではあった
しかし日本への帰国資金には不足していた
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漂流者全員の帰国、ボートを買う手段を含めた場合です。
■ゴールドラッシュに参加 1848年カリフォルニアの山奥で農地を開拓しようとしたところで偶然にも金が発見される。 カリフォルニアは当時はまだメキシコの領土であったが、 1846~48年 アメリカとメキシコの戦争にアメリカが勝利し、 結果としてアメリカ軍が占領していた時代であった。 1850年に正式にカリフォルニア州としてアメリカの領土となる。 当時のカリフォルニアは無法地帯で、まだ未開拓の場所であった。 そのため誰でも金を採掘できた。もちろん免許なども必要としない。 交通なども整備されていなく、カリフォルニアまで行くこと自体が大変であったため、 金を求めてカリフォルニアに向かっている途中で亡くなる人も多かった。 金をめぐって発掘者同士のトラブルも多く、金品の略奪や殺害も起こっていた。 実際に金の採掘で儲けられた人はごくわずか・・・ そんなゴールドラッシュをチャンスと見た万次郎は友人テリーを誘い発掘へ向かう。 最初は川の砂をザルですくえば砂金が取れたのだが、 万次郎が到着した時はツルハシやスコップて掘り当てなければならない状態だった。 コツをつかむために、鉱夫として雇われて要領を得てから独立して発掘した。 70日ほど作業して取り分は600ドルを超えた。
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よし、ゴールドラッシュ行こか~って言われて一緒に行くのもすごいなと・・・
例えば(元ゾゾ社長の)前澤さんが「宇宙一緒に行こう」って言って一緒に行くかと言われれば断っちゃうと思います。
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バイタリティとチャレンジ精神がすごいよね。
■そして日本への帰国 万次郎はアメリカ大統領と議会が艦隊を日本へ派遣することを決定した記事を見たことで、 日本への帰国を急ぐことにした。 もし日本側がその艦隊に発砲すれば戦争になってしまう。 万次郎が日本側へ世界情勢を説明すれば、最悪の事態は避けられると思ったためである。 ホイットフィールドのいる家には戻らずにハワイのオアフ島へ行った。 漂流時代のメンバーと再会し、一緒に帰国を決意する。 日本に上陸するためには自分たちのボートが必須のため、 ゴールドラッシュで得たお金を元手に帆が立てられるボートを購入 アドベンチャー号と名づけた。 着陸地点は琉球にしようと考えた。 この頃の琉球は薩摩藩の属国で、実際にアメリカの船が物資を求めて上陸した際に、 攻撃されることがなかったという実績があったためである。 日本近海を通る船を探し、上海を目的地とする商船を見つける。 それがサラボイド号であり、船長のホイットモアに交渉した。 一等航海士のキャリアがあり三人分の働きをする。 働きが不足であるなら、日本近海でボートを下し2人だけは日本へ返してほしい 私は上海まで働くと。そして船長の了承を得ることができた。 琉球まで10マイル(約16キロ)のところから夜にボートで漕ぐ ここからなら島民から本船は確認できない距離であり、 外国船から来たからと追い払われてしまうのを避けるためであった。 悪天候で雨風が強い中、10時間懸命に漕ぎ続けやっと琉球に到着した。
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漂流してから琉球に帰ってくるまで万次郎は14歳から24歳になっていたました。
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すごい青春時代だな・・・
■土佐藩へ帰ることに
万次郎は11年10ヶ月ぶりに母親に会った。
万次郎の兄弟も全員生きていた。
当時の土佐藩主は山内容堂であった。
万次郎に理解がある人で今の幕府のあり方を変えるべきだと改革を訴えていた。
土佐藩お抱えの絵師の家に万次郎を滞在させ、海外での出来事を報告書にまとめるように命令。
【土佐藩の指示】
・帰国した3名は他の土地に行かないこと
・海での仕事は禁止
・その代わりに一生涯に渡って、俸禄を与える
万次郎は後に山内容堂の推薦で武士に登用される
名字を名乗ること許され、出身地の中浜をとって中浜万次郎となった。
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身分格差のあった時代で平民から武士になれるのはすごいことです。
■ペリー来航
1853年 アメリカのペリーが蒸気船4隻で江戸にやってきた。
空砲などで日本に対し威圧的な行動を繰り返した。
江戸幕府は対応に困った。
アメリカの目的が何なのかを知りたかった。
そこで幕府はアメリカから帰ってきた万次郎を早急に江戸に来るように命令した。
万次郎は土佐の武士から幕府直属の家臣となる。
万次郎にアメリカの目的を聞いた
。
【アメリカの目的】
①アメリカ本土では未開拓な地域が多くあり、日本に対しての領土的野心はない。
②アメリカの目的はクジラの数が減少して日本近海まで範囲を伸ばして捕鯨をしたい
→それには、水や食料の補給と病人や遭難者出た場合に保護できるように開国を要求
当時日本において英語でまともに会話できるのはジョン万次郎のみ
しかし、ここで万次郎は起用されなかった。
・アメリカ側に万次郎を連れて行くと何をされるかわからない
・万次郎自身も長い間アメリカにいたことで、疑いの目で見られていた
英語→オランダ語→日本語での交渉は時間がかかり難解に
なってしまう。
アメリカ側からも万次郎の存在を知っていたため、
なぜ彼を通訳として起用しないのかと苛立ちの日記が残っている。
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こうして日本は開国へ!!
■咸臨丸での活躍
勝海舟や福沢諭吉と日本の船でアメリカに初めて渡った。
1858年 日米修好通商条約調印
国家間で条約に同意した文書を交換するために首都ワシントンに使節を派遣
2名の日本の副使はアメリカ海軍の軍艦ポーハタン号でアメリカへ向かう。
それに随行する形で幕最新鋭の蒸気船「咸臨丸」に通訳として万次郎は乗船。
※咸臨丸は当時幕府がオランダから購入
蒸気ではあるものの、燃料の石炭は3日分しか積めない設計のため、
出航と入港の際しか蒸気船としての役割はしていなかった。
他は風を受けて走る帆船と同じ。
その他、長崎海軍伝習所の生徒(航海術などを学ぶ教育機関)が半分以上を占め
日本人は総勢96名がアメリカへ向かった。
太平洋を何処にも寄らずに横断してアメリカへ行くのは日本の船としては初である。
アメリカ海軍の測量船艦長ブルック大尉が下田にあるアメリカ領事館に訪問していた。
幕府側はブルック大尉に咸臨丸でアメリカまで同行してもらい、
航海の実技指導を依頼した。他アメリカの乗組員11名も同行した。
太平洋の荒れようがすごく、日本人は船酔いで倒れ、部屋から出て来れない。
勝海舟も船酔いで部屋から出てこれなかった。
日本人は万次郎含む3名のみが船の対応した(96名いたが・・・)
他全て、アメリカ側の乗組員がほぼ休みなく操縦をした。
【~ブルック大尉の航海日誌より~】
万次郎さん私たちがこの船から手をひいたらこの船はどうなるでしょう
万次郎はたちまち沈没することでしょう
37日間の航海を終え、サンフランシスコ港へ到着
この航海で万次郎の航海技能の高さが改めて評価される
サンフランシスコからワシントンへ行く予定だったが、船の修理に時間がかかるため断念した。
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ちなみに勝海舟とは咸臨丸乗船以後仲良くなって浅草うなぎの蒲焼を食べに出かけています。
万次郎はうなぎ茶漬けが大好物らしいです。
■小笠原諸島について
1862年 小笠原諸島開拓調査団107名(通訳として万次郎も同行)が咸臨丸で小笠原諸島へ行く。
当時小笠原諸島は日本人が住んでおらず、開拓の必要性を幕府に3回も建白書を提出していた。
八丈島から小笠原諸島の父島に14名の男女を住まわせた。
小笠原諸島の開拓に最も早く乗り出したのは1830年代のハワイのカメハメハ大王であった。
その後アメリカ人イギリス人も住んでいたりした。
これらの島民を集めてここが日本国の領土であることを証明し確認了解書にサインをさせて
港に日の丸を掲揚した。
咸臨丸の調査から小笠原諸島が捕鯨に向いてると判断した。
幕府は捕鯨許可を出し、その後万次郎は外国船を購入し捕鯨船の船長として漁をしている。
船長としてクジラを探す航海の途中で鳥島に立ち寄り日本国領土の看板を設置している。
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これがなければ今小笠原諸島は日本ではないかもしれない・・・
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万次郎のファインプレーですな
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ちなみに万次郎を助けてくれたホイットフィールド船長とは後に再会してます。
ホイットフィールドは65歳、万次郎は43歳の時です。
日米友好の架け橋となった万次郎は、その後脳溢血で71歳で亡くなります。
マサチューセッツ州フェアヘーブンの図書館には万次郎の展示室が設けられています。
2回目のYoutube音声はこちら👇
【Podcastでの音声はこちら👇】
第52回「ジョン万次郎」アメリカで高等教育を受けた初めての日本人
第53回「ジョン万次郎」武士となり咸臨丸での活躍
【放送の文字起こしはこちら👇】
第52回「ジョン万次郎」アメリカで高等教育を受けた初めての日本人
第53回「ジョン万次郎」武士となり咸臨丸での活躍
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